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根津甚八プロフィール
俳優。75年「娘たちの四季(フジテレビ)」でエランドール賞を受賞。同年「濡れた賽の目」で映画デビュー。80年黒沢明監督の「影武者」に出演。82年「さらば愛しき大地」でキネマ旬報主演男優賞、日本アカデミー賞主演男優賞受賞。85年に再び黒澤明監督の「乱」に出演し世界的評価を得る。近年は舞台を中心に精力的に活動している。
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自転車

皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
各地に被害をもたらした梅雨も、関東ではやっと開けました。   
いよいよ夏本番ですね!!!
   
今回はまた状況劇場時代のエピソードをご披露しようと思います。

俺が入団した経緯は以前書いたように、半分騙されてたようなフシもあったわけだけど、翌年の1970年からは毎年正式に(?)研究生を公募するようになった。
といっても、今のように情報媒体が溢れるほど無かったので、いつも公演ポスターを貼らしてくれてる酒場やジャズ喫茶に、新人募集のチラシを置いてもらうとか、「読書新聞」の隅に案内を掲載するという程度だったから、ほぼ口コミに近い形だった。
それでも、毎年数十名の応募者の中から選ばれた新人が少しずつ入団して来て、阿佐ヶ谷の稽古場が手狭になってきた・・・というのがキッカケだったかどうかは知らないが、唐さんの自宅兼稽古場は、杉並区阿佐ヶ谷の借家から練馬区土支田の借家に移ることになった。

吸血姫
土支田に移って最初の芝居「吸血姫」のポスター


阿佐ヶ谷の稽古場は、JR中央線阿佐ヶ谷駅南口から「パールセンター」というコギレイで大きなアーケード商店街の中を抜けた辺りの裏手にあったので、周囲にはあらゆる店が並んでいて、賑やかで、便利で、楽しい環境であった。
それに比べて、土支田の新しい稽古場の周辺環境には驚いた。
周りは畑、畑、畑、畑、畑。

見渡す限りハタケばかり。ほんの数キロ北へ上がれば、そこはもう埼玉県という、東京であって東京ではないような所であった。
阿佐ヶ谷駅周辺のもつ焼き屋とか喫茶店とか、パールセンター商店街が恋しく思えたものだ。

商店街なんて、とんでもない。周りに店の一軒もありゃしない。
こいつには、正直ショックを受けたね。
一番近い駅が西武池袋線「石神井公園駅」なんだけど、歩いて20分もかかるのだ。

この頃の俺は、稽古場住まいを卒業して、阿佐ヶ谷の稽古場まで歩いて10分くらいの青梅街道沿いのアパート住まいを始めていた。
そこで困ったのは、土支田の稽古場へ通う手段である。

阿佐ヶ谷のアパートから電車で通うとなると、一旦新宿へ出てから、池袋へ行き、私鉄に乗り換え「石神井公園駅」、それから徒歩20分。時間も金も懸かり過ぎ。
バスを乗り継いで行くというルートもあったが、渋滞にはまる場合もあるし、時間が読めない。
こいつは、どうしたもんかと思案していたら、
ある日、大先輩の麿さんが、革ジャンにダウンハンドルの自転車というスタイルで稽古場に現れた。

「麿さん、自転車だと、どのくらいで来られるます?」
「ユックリで30分、飛ばせば20分チョットかな」
「エエッ、そんなに早いんですか!!」

麿さんの家と、俺のアパートは近所であった。
よし、俺も自転車で通おう。時間も金もかからないし、稽古場での酒宴が深夜まで続こうが、気にならない。
ただし、肝心の自転車を持っていなかった。
以前、実家に帰った時、格好良いスポーツ自転車が置いてあったのを思い出した。早速、母に電話で聞いてみた。

「ああ、あれはね、○○が買ったんだけど、今は乗ってないみたいよ」

○○とは、2才したの弟である。

「そうなの。じゃ、近いうちに取りに行くよ」

ってなわけで、半ば強引に弟が使わなくなったダウンハンドルのスポーツ車を譲り受けた。
前2段後4段の変速ギア付きで、こだわり屋の弟らしく一級品であった。

早速翌日から自転車での稽古場通いが始まった!

これが、やってみると快適なんだよね。
阿佐ヶ谷から土支田までの裏道から裏道を、風を切って、殆どノンストップで走り抜けて行くんです。怖いもの知らずでしたね。

ところが、自転車で通い始めて半年たち、裏道のも慣れ始めた頃でした。
俺は、宙を飛んだのです。

つづく
    
また次回、お会いしましょう。
投稿者 根津甚八 16:13 | コメント(6)| トラックバック(0)

川遊び

皆さんいかがお過ごしですか? 根津甚八です。
いよいよ夏休みに突入ですね。
ご家族で、また友人や恋人と、海、山、川へ遊びに行かれることと思います。

夏と言えば水泳の季節ですが、実は、俺は泳ぎが不得手です。中学生の時、溺れたことがあって、以来水に対して恐怖心が拭いきれないところがあるんです。でもカナヅチではないので、一応泳ぎには行くのだけれど、自分の背丈を超える深さまで浸かると、とたんに緊張します。
唯一余裕を持って出来る泳ぎは、「平泳ぎ」ぐらいですかね。

俺が生まれたのは、山梨県都留市。
昭和30年の春まで、この町で育ちました。
ご存知のように山梨県は海に面してません。典型的な盆地の気候で、風が抜けない都留の夏は、独特のうだるような暑さです。
家の前のコールタール製の道路の表面が、夏になるとまるでガムのようにグニャグニャに溶けてしまうほどの酷暑です。

当時は勿論エアコンも冷蔵庫もありません。
じゃ、どうやって夏場を凌いでいたかというと、まずは家の構造そのものが、高温多湿の風土に合っていて、要するに隙間だらけで風が抜けるんです。密閉性の高い今のマンションなんかと比べたら、ゼーンゼン涼しかったように思います。
どの家も高床式で、縁の下が風の通り道になっていて、畳の下は板一枚剥がせば、むき出しの土くれ。
陽の当たる側には、ヨシズや簾で日陰をつくり、障子や襖を大きく開けて風が抜けるようにしていました。

あとは、もっぱら自分で団扇か扇子であおぐ。扇風機はどちらかといえば贅沢品だったように思います。
それと、井戸水で冷やしたスイカ、トマト、キュウリなどを食べて、体を中から冷やす。おやつにはかき氷とかアイスキャンディーとかね・・・。
それから、軒下に風鈴を吊るしたり、家の中の何処かに金魚鉢を置いたり、音や見た目で涼しさを感じとっていた。

そして、夏場の子供の遊びと言えば、何と言っても川遊び。

当時、小学校にプールなどあるはずもなく、夏に泳ぐ場所といえば、二人の兄に連れられていった川でした。
町を縦断するように「桂川」という相模川の上流となる清流が流れていて、夏休みの間は毎日のように、通ったもんです。
家から川までは歩いて2、30分だったでしょうか。

川遊びに行く時に用意する物は、手拭い一本だけ。

人一人通るのがやっとといった細い崖道を下りてゆき、河原に着くと、清流からの涼しい風が柔らかく吹いて来ます。
1メートルぐらいの高さの大石の側で、早速素っ裸になると、着て来た半ズボンから皮ベルトを抜いて腰に締める。これからが手拭いの出番。
まず、手拭いの片端を尻の上あたりのベルトに一結びしてから、もう片方の端を股の間をくぐらせ、男子の大事なものを包み込むようにして、へそのあたりでベルトに挟み込んで、余った部分を前に垂らして、手拭いふんどしの出来上がり。こういう手拭いの使い方もあるんです。

桂川は富士山の麓の湧水を水源としている清流ですから、真夏でも水温は20度を超えることはありません。
だから、2、30分も川にいると、すぐ体が冷えてきます。

川にいると言いましたが、俺みたいにまだ満足に泳げない子供たちは、流れの殆どない浅い淀みで、せいぜい犬かきと水浴び程度でした。

それでも夢中になって遊んでいると、全身が小刻みに震え始め、顎が痙攣してきて自力で抑えようとすると余計にひどくなって、上下の歯はガチガチ鳴り始め、唇は、血の気を失い濃い紫色になってくる。
ひどい時は、かき氷を急いでかき込んだ時と同じように、こめかみにキ~ンと痛みが走ってきます。

ここまできたら、川から上がり、日向の河原にデンと座ってるでっかい石を目がけて駆け出し、そいつにガッシと抱きつきます。
夏の太陽に晒された河原の石は、火傷するんじゃないか思うくらい熱いんだけど、全身が芯から冷えきってるので、丁度いいんです。

上からの太陽の直射熱も受けながら、暫く大石に抱きついてると、冷え切った体が温まってきて、震えも顎の痙攣もおさまり、唇に赤味も戻って来る。
そのままジッとしていると、じわじわと汗がにじみ出してきて、今度はジリジリと暑くてたまらなくなって来る。すると、また川の中へ。

ただこの繰り返し。何だか、サウナ風呂と似てますね。

陽が傾いて来ると、深い谷底を流れている川の南側に山が迫っているせいで、河原は急に冷えて来ます。
こうなったら帰り支度です。といっても、股間の手拭をはずして、服を着るだけですけどね。
今考えると、桂川へ泳ぎに行っていたというより、ただ体を冷やしに行っていたという方が当たってるかもしれません。

それから時は流れて30数年後、ニジマスの大物が釣れるという情報を聞き、久しぶりに故郷の川を目にした時、その変わり果てた様子は、あまりに悲惨なものであった。
あの清らかな水は濁り、いたる所に自転車、マットレス、バイク、等々粗大ゴミが捨てられていて、場所によってはドブのような異臭さえしていた。
中でも一番驚いたのは、白いゴミ袋が、昔話「桃太郎」の桃のように、川上からドンブラコと流れて来たのだ。まるで悪い夢でも見せられているような気がした。そして河原には「遊泳禁止」の看板が立っていた。

そこには、俺の幼い頃の記憶の中の桂川は跡形もなく消え、無残な姿をさらしていた。

こういうことは、何も俺の故郷だけの話ではなく、日本中のいたる所で見られる現象なんだろうな。

悲しい現実。

では、またお会いしましょう。
投稿者 根津甚八 14:03 | コメント(9)| トラックバック(1)

Jeep

皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
今年の5月の天候は最悪でしたね。ドンヨリした日が続き、「五月晴れ」と呼べるような清々しい日は、ほんの2、3日しかなかったですよね。
そして、そのまま梅雨に突入してしまいました。
テニス大好き人間の皆さんは、心地よい陽の光を一杯に浴びながら、オープンエアーのコートで、久しぶりに清々しい汗を流せるぞと意気込んでいたのにガックリきた方も多かったのでは…。

日本で一年を通じて一番心地良い季節が5月と10月です。
これには誰も異論はないと思います。
暑くもなく寒くもなく、陽射しは柔らかく、風はサラッと優しく匂い立つようで、たま~に、ここはハワイでは?と思えるような日もありますよね。
俺も、CJ-7というJeepを持っていた頃、この2ヶ月間を特に楽しみにしていました。

CJ-7がどんな車なのか知らない人ためにザッと説明すると、Jeepというのは元々米軍の軍用車で、それを第二次大戦後に、Civilian Jeep、つまりCJと形を変えて民間で売り出された四輪駆動車で、遊びのための車です。

俺が乗っていたのは、1978年製の、アメリカ独立200周年記念の特別バージョン、『CJ-7ゴールデンイーグル』という仰々しい名前がついたやつでした。
フルタイム4WD、排気量5、V8、3速オートマ、エアコン付き。ハードトップ仕様でソフトトップ(幌)のおまけ付き。
色はメタリックダークグリーン。車体の半分を占める馬鹿でかいボンネットの上面一杯に、アメリカの国鳥・白頭鷲が羽を広げた格好でゴールドタリックで描かれているから、外観はかなりハデハデ。
初めて見た時は,自分が乗る車じゃないなと感じました。


JEEP1
冬の富士山を登坂した時。残念ながらハードトップ仕様。


    
ところで、役者というのは、仕事をしてる時は常に、多くの他人の視線に晒せれっぱなしです。また,視られていなければ成立しないのも役者というもの。
ですから、知らない間に「他人の視線」から放射される「凝視ウィルス」のようなものに侵されてしまっているのです。

だから、オフの時は出来るだけ他人の目を避けて、地味イ~~な格好をして、地味イ~~にひっそりと過ごしたくなるものなんです。
要するに「匿名性」にまぎれて、本来の自分に戻りたいというところがあるんですね。
無論、これとは逆に、オフの時でも目立ちたがり屋でいたいというタイプの方もいるようです。おそらく「凝視ウィルス」に対して、元々免疫力が備わっている人種なんでしょうね。
俺の場合はこの免疫力、殆どゼロですから、オフの時は地味~にしていたいんです。当然車も地味なものにしてました。

だからGOLEDEN EAGLEを最初見た時、こんなハデハデな車なんて、トンでもない。俺には似合わないと思ったわけです。
ところが、一旦試乗してみたら、そのバイクのような鋭い出足と強烈なパワー(ポルシェと信号グランプリやっても、100m位までなら勝てる)、それと野太く、低音で腹にまで響く独特の〈V8サウンド〉に一発でノックアウトされてまい、欲しくなってしまったのです。

この車の最大の魅力は、何と言ってもフルオープンにして走ってる時のこの上ない開放感。こいつばかりは一度体感すると病みつきになること、間違い無し。

オープンカーというと、普通、たためる部分はルーフとリアウィンドーというのが常識でしょ。
ところがどっこい、Jeepのオープンスタイルというのは、たためる部分がルーフとリアウィンドーだけではないんです。ナ、ナ、ナント左右のドアも、(ドアですよ、ドア)ヒョイと持ち上げるだけで、簡単にはずせる仕組みになっているのです。さすが、軍用車だね。
だから乗り降りはいたって簡単。ドアの開け閉めの手順無しで、いきなりヒョイとシートに飛び乗って、即出発。瞬時にして全身が風に包まれる。これ以上開放感を味合わせてくれる車は他にはないと思う。

もっと過激にやろうと思えば、フロントウィンドーもボンネットの上にたためちゃう。こうなると、乗ってる人間の体はほぼむき出し状態、つまり、巨大なバイクに腰掛けているような感覚と言ったらいいのかな。
さすがに、フロントウィンドーまで倒した究極のオープンスタイルは、数回しかやったことがないけどね。街中ではないですよ、山に入ってからです、勿論。

街中でやったら、例えばこんなことになります。
まず、極フツウに転がしているだけで充分目立ち過ぎです。
渋滞にはまったら、それこそ大変。間違いなく周り中から冷ややかな視線の集中放射を受けます。
最悪なのは、渋滞中のスクランブル交差点で、青信号で渡りきれず横断歩道上に停まってしまった時でしょうね。こうなったら恥ずかしいですよ。
でも、そういう時は、恥ずかしいなんて事はおくびにも出さず、冷たい視線の群れが過ぎ去るまで、ぐっとステアリングを握りしめ、ジッと前方の一点を意味なく睨みつけてただ耐える、これしかありません。

でも、このフルオープンでの走りを満喫できるのは、一年のうち気候の穏やかな5月と10月の雨が降らない日に限られてしまうのです。
多少我慢すれば、日本の冬や夏でも乗れることは乗れるんですがね。

冬は、バイクに乗る時とほぼ同じ身支度をすれば、それなりに快適。
たまに雪が積もった日なんか、用もないのに家の近所を走り回ったりして、結構楽しめる。
でも夏は、いかんね。まるで、いかん。
屋根がないから強列な陽射しの直撃を避けようがないわけです。シートからステアリングから、何から何までアッツくて耐えられたもんじゃないです。エアコンをフルにしたって、気休め程度の効果しかありません。
車に乗ってるのに、車内は車外よりもめちゃくちゃアッツクなるんです。
特にシートと密着してる背中、尻、腿の裏は汗でグッショグショ。まるで灼熱地獄と言ってもいい。

他にもデメリットはありましたね。
なんといっても燃費の悪さ。都内だと、ナナナナント、リッター2,7km位しか走りません。まるでガソリンを撒きながら走ってるようなもので、とても毎日は乗れませんでした。
かといってちょくちょく乗ってやらないと、エンジンが機嫌を損ねるんですよね。修理費もかなりかかりましたね。
こんな手のかかるやつだから、逆に愛着が湧いて来てしまうんですよね。


JEEP2



たとえ一年のうちの5月と10月の雨が降らない日という限定賞味期間付きではあっても、滅茶苦茶面白い車でした。
開高健さんの言葉で「男の大人と子供の違いは、持ってる玩具の値段の違い」というのがありましたけど、本当にその通りだと思います。
CJ-7は俺にとって最高の玩具でした。

では、またお会いしましょう。
投稿者 根津甚八 15:11 | コメント(12)| トラックバック(0)

6「委細面談」

皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
アッツイですね~。夏本番真近って感じですね。

ところであなたは、一日に「アッツイ」を何回言ってますか?
俺は、最低20回ぐらい、いや30回以上言っちゃてますかね。
夏場の「アッツイ」は一種のボヤキだと思うのですが・・・どうですかね?
いくら「アッツイ、アッツイ」ってボヤイても、いっこうに涼しくなんかならないけど、止まるもんじゃないんだな、これが・・・。
でも東京の暑さには、コンクリートジャングル特有の不自然な息苦しさがへばり付いてますからね、ついボヤキが出ても無理からぬところでしょう。
東京に限らず、夏になれば、大阪とか名古屋とか、大都会はどこも同じく「ヒートアイランド現象」に包まれてしまうんだろうなあ。

むか~し、むか~し、昭和の初期までの東京は「水の都」と呼べるほど、清らかな川が沢山流れていたそうな・・・
ああ、それなのに、それなのに、美しい川たちは次々と道路の下に埋められ、ただの排水路に変えられてしまったんだと・・・
都内のあちこちにある「××緑道」は、かつての美しい川の流れの成れの果てなのだそうな・・・
「××緑道」のアスファルトを全~部引っぱがしちまってよ~、清らかな川の流れを蘇らせたら、この東京もさぞ涼しくなろうにのう・・・


さてさて、長々と失礼いたしやした。やっと今回でエンドマークでございます。お楽しみ下さい。

「では、いろいろと身辺の整理をすませてから、2週間後に稽古場に来て下さい」
ってなわけで、キッカリ2週間後、俺は早速身の回りの品々と共に稽古場に転がり込んだ。
この時、劇団は、すでに『少女都市』の公演に向けて稽古に入っていて、すぐ翌日から稽古に参加、といっても、奇優、怪優たちに圧倒されつつ、食い入るようにその演技を観ていただけですけどね。

少女都市ポスター
赤瀬川源平さん制作の『少女都市』のポスター


稽古場は、唐さんと初めて対面した、あの十畳あまりの洋間であった。
正面の壁の上部には、剣道場のように劇団員の名札が下がっていて、唐さんを筆頭に李礼仙、麿赤児、大久保鷹、不破万作、特別劇団員・四谷シモンと並んでいて、「研究生」の札の後には田和耶、大月雄二郎、十貫寺梅軒、上原誠一郎などと続き、都合全部で13枚。当然、稽古場にいる中で名札が無いのは新入りの俺だけである。

ん? ということは、今回の新人募集で受かったのは俺一人? まさか、そんなことは考えられない。少なくともあと2、3人はいるはずだ。だって、唐十朗率いる一党、状況劇場の入団試験だよ。合格者がたったの一人って、そりゃあり得ないだろう。
しかし、稽古場に転がり込んでから一週間たっても、二週間たっても、俺以外に新人は一人も現れなかったのだ。

研究生として入団してどれほどたった頃だろうか、劇団の大番頭と呼ばれていた不破万作さんに思い切って聞いてみた。

「入団してからずーっと引っ掛かっていたことがあるんですけど、ちょっといいですか?」
「なに?」
「実は、今回の新人募集で受かったのが俺一人だけっていうのが、どうも解せないんですよ」
「……あのな、うちはテント劇場だろ」
「はい」
「だから一定の男手がないとテントが立てられない、つまり公演を打てないわけだよ。」
「ええ…」
「この夏にやった日本縦断興行がかなりキツかったからさ、それで劇団員や研究生がかなり辞めちゃったんだよ。でな、座長、李さん、シモンを除くと、テント用員が10人になっちまったたわけだ。テントが立たなきゃ始まらないわけだからさ、ここんとこズーッと男手を募集してたわけさ」
「はあ~、そういうことだったんですか」

正直言って面食らった。この時状況劇場がやっていた「新人募集」とは、通常の試験のような一日限りのものではなく、公演日程を目前に控え、とりあえずのテント用員として、男手をかき集めるために随時行なわれていたのだ。なんて事はない、ちょっと昔に喫茶店や小さなバーの表によくあった「ホステスさん募集・委細面談」の貼り紙。あれと同じである。

こうして、異形の一党・状況劇場がありきたりの劇団と同じような新人募集をやっていたという謎、
二十歳そこそこの非常識な若造に、何故、尋常でない丁寧さで対応してくれたのかという謎、
そして入団試験当日、遅刻したにも関わらず「明日もう一度、同じ時間に来なさい」という、通常では絶対あり得ない対応の謎、
俺以外に受験生が見当たらず、不気味に静まりかえっていた玄関ホールの謎……。
それらすべての謎の塊は一気に氷解したのである。

状況劇場にはテント劇場ならではの止むにやまれぬ事情と、俺には俺の切羽詰まった事情とが重なって、運命的ともいえる状況劇場への入団と同時に、俺の役者修行はこうして始まったであった。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
ナント6週間もかかってしまいましたが、皆さんから「面白い」「続きを早く」などとコメントをいただき、嬉しく思いました。
ただし、正直言って、完結篇を書き終えた今、次の話題のセレクトにプレッシャーを感じてます。

では、またお会いしましょう。
投稿者 根津甚八 17:00 | コメント(15)| トラックバック(0)

5「あり得ない眼」

皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
もう夏ですね。気温もだいぶ上がってきています。なのにテレビでは風邪薬のCMを流しています。夏風邪をひく人が増えてるってことですかね。
近頃は、野菜や果物に限らず、CMまで季節感が無くなってきたようです。
夏風邪に一度やられたことがありますが、あれは結構やっかいです。夏とはいえ、風邪などひかぬよう気をつけましょう。

相変わらず、長々と一つの話を続けています。

断っときますけど、これは決してフィクションではありませんよ。
すべて事実です。「謎」はすべて向こうから勝手に湧いて来るんであって、俺から仕掛けてるわけじゃないんです。また、意識的に引っぱってるわけでもありませんからね。そこんとこ、よろしく。

書いてる本人も早く結末へ持っていきたいのですが、思うように行かず戸惑っているというのが本当のところです。

では、前回のつづきをお楽しみ下さい。

「もう少しで唐さんが帰って来るので、それから面接をします」と告げられた。

オーッ! ついにあの憧れの唐十朗に会える!!
21歳のケツ青き根津くんは、浮き足立った自分を抑えるのが精一杯であった。(とにかく軽薄に見られないこと、それで一点突破だ)

玄関口に誰やら帰って来たような雰囲気がして、程なく正面のドアから、藍色の和服姿というくつろいだ雰囲気で、唐さんはごくフツーに現れた。

十畳あまりの空間に二人っきりである。

大体が、中国人のようなペンネームからしてすでに充分奇異であり、『腰巻きお仙』に載っていた顔写真のイメージがあまりにも強烈過ぎて、いま唐さんを目の前にしていることが現実とは思えないほど冷静さを失っていた。夢とも現実とも判別できない不思議な時空にはまりこんでいるとでも言ったらいいのだろうか。

唐十朗


 「腰巻きお仙」に載っていた唐さんの20代の頃の写真です。どうです、 この顔? 当時の俺には本当に衝撃でした。

唐さんは俺の答案用紙を眺めながら、時折こっちを見る。その異様にツルンとした顔立ち、キラキラと赤ん坊の眼(マナコ)のように薄青く澄んだ眼。あり得ない眼だ。そして今迄見た事がない不思議な顔つき。
憧れの唐十朗が、今、間違いなく俺のすぐ前にいる。

「ギターを弾けるの?」
「はい、少しだけ」 
「じゃ、そこにあるギターで何かやってみて」(ここで俺の好きなビートルズとかボブ・ディランなんぞやったらマズイな、ここはド演歌『悲しい酒』を一節)
 ♪チャンチャカ、チャンチャンチャンチャン、チャンチャカ、チャンチャンチャン…、長目のイントロを終え、ひ~と~り~酒場で~と歌いだしたとたん、
「昼間っから、そういうのも何だから」と、すぐに止められた。(はずしたか)
「大学で演劇をやってたの?」
「はい、サークルですけど」
「これまで読んだ戯曲で、一番感動したものは?」
「サルトルの『蝿』です」
「…それは、僕の卒論だよ」
「そ、そうなんですか」
「……じゃ、今日はこれで」

面接はあっけなく終わり、「では、今日の夕方四時に電話をください。結果を伝えます」と告げられた。
      
その日の夕方。四時キッカリに公衆電話から電話を入れた。

赤電話


「今日試験を受けた根津ですが…」
「あなたは、合格です」
一瞬呆然とした。あまりに呆気無さ過ぎていまひとつ現実感がない。
しかし、どうやら、俺は、あの憧れの唐十朗が率いる伝説の劇団に、絶対あり得ないと思っていたあの状況劇場に入れたらしかった。
「えっ! あ、そうですか! ありがとうございます」
「それでですね、もし君が望むならばね、他の団員と同居だけど、こちらの稽古場に住むということも出来ます。勿論多少の家賃はかかりますが……」
「……う~ん、そうですね……、じゃ、そうさせてもらいます」
「では、いろいろと身辺の整理をすませてから、2週間後に稽古場に来て下さい」
電話を切って

きっちり2週間後、西日暮里の四畳半を引き払い、少々の本とレコードと小さなステレオ装置とともに状況劇場の稽古場に転がり込んだ。
21歳の秋であった。

また今回も結末までたどり着けませんでしたね。次回で必ず完結にします。ケツ青き根津君にまつわりついてきた数々の謎も、すべて解けます。

続けて読んで下さってる皆さんに感謝しております。
また、お会いしましょう。
投稿者 根津甚八 12:09 | コメント(14)| トラックバック(0)
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