追悼・丹波哲郎さん2006年09月29日
皆さん、お元気でしょうか? 根津甚八です。
俺の大好きな役者、丹波哲郎さんが亡くなられました。
9月24日午前11時27分。84歳でした。
無茶苦茶、哀しいです。今こうして打っていても、こみ上げて来る嗚咽にタイピングも途絶えがちです。
丹波さんとは、大河ドラマ「黄金の日々」で初めてご一緒させていただきました。
丹波さんが演じられたのは、堺の大豪商・今井宗久(織田信長との付き合いも深い武器商人という面もあった人物) 俺は、その今井宗久の雇われ人で、情報収集屋、いわば忍者の石川五右衛門を演らせた貰っていたわけです。
主従関係ですから当然、特にドラマの前半は丹波さんとご一緒出来る場面が多くて、俺が芝居の世界に入る以前に観た「007」で、ショーン・コネリーに負けない存在感を放っていた丹波哲郎という大俳優と、一緒に演じられる、そういう日々を本当に楽しみにしていました。
故・丹波哲郎さん
今井宗久の丹波さん。どうです、このこの面構え!
顔も身体もデッカくて立派だったけど、あの人の声の野太さとデカさ、良かったあ、好きだったなあ!!
だからといって、人に威圧感を与えるところはないんです。
大スターなのに、アングラ劇団から来てる生意気な若造の俺にも、フラットな対応をしてくれていました。
おおらかで、気さくで、人間としてスケールが大きい印象でした。日本の役者の世界では、非常に珍しいタイプのキャラクターを持ってらしたと思います。
「黄金の日々」の時、度々こんなことがありました。
丹波さんが出るシーンの開始時間になっても、スタジオの中に丹波さんはいつもいません。徐々にスタッフも共演者もジリジリしてきます。
そして、キッカリ30分後。あの太くデカイ声がスタジオ中に響きます。
「もう大丈夫だ、大丈夫だあ。オレが来たから大丈夫だあ」
かつらも衣装もキッチリ済ませた今井宗久の丹波さんが、堂々と、かつ悠然と、入ってくるんです。待たされていた皆は、思わず笑っちゃいます。
「もう大丈夫」って、そりゃそうだよ。
丹波さんっ、あなたが時間通り来てくんないから録画が中断してたんですぅ。アッケラカンとしてセットに上がり、何事も無かったかのように涼しい顔してスタンバイする丹波さん。
俺は、もう大受けでした。そして、すんごい人だと圧倒されました。
こんなことも印象深く思い出します。
今井宗久と五右衛門の二人きりのシーンの本番の時。
ワンテイク目終了。2階の副調整室から「オーケー!」の声が懸かりません。フロアーADの男性が丹波さんの側に寄って来て、手にした台本を開き、半分腰が引けながら小声で丹波さんに言いました。
「あの・・・、ここのところの台詞が、少し間違っていたかなと・・・」
丹波さん、ADが指し示した辺りを数秒間目を通した。
そして、あの声で、
「うん、しかし、意味は通じてるだろう、意味は。大丈夫だあ!」
と言い残し、ユッタリとセットから降りてスタジオを去って行かれた。唖然として見送るADや他のスタッフ達。これにも、まだ若造だった俺は驚かされました。
丹波さんの訃報記事の中に、家の中に仕事を持ち込まない主義だったとあったけれど、思い当たる場面を見たことがある。
大河ドラマを録るスタジオ入口の前には、メイク用ブースが4つ位ならんでいる。ある日、スタジオ入口から一番離れているブースの蛇腹パーテーションをザーっと開けたら、何と、あの丹波さんが、真剣な表情で付け人相手に台詞覚えをやってらしたのだ。
これは俺の憶測だけど、丹波さんはもの凄く台詞覚えが早かったのではないか? だから、自宅では台本は開かない。恐らく一度読めばほぼ頭に入ってしまうので、移動中の車内や、現場での待ち時間などに、サッと覚える。
つまり、同じ台詞を繰り返し練習する必要がないのだ。
この、繰り返して台詞を練習しないことは、台本に書かれた台詞を「生きてる言葉」「自然な、血の通ってる生々しい台詞まわし」にする秘訣なのです。これについては、またの機会に!
丹波さんの「意味は通じてるだろう」という言葉は、実は、作り物であるドラマ・映画・演劇での役者の物言う術の肝(キモ)をついてると思います。
ここからも推測になりますが、丹波さんは、おおらかに、そして一気にザッと台詞を入れる。あとは、本番を待つ。
台本との多少の違いなどモーマンタイ(無問題)。台詞を思い出すのも、自然な自分の間にしてしまう。そんな事よりもっと大事なのは、「演者が演じてる現在を生きていること」にいかに自信を持っているかだ。そういう信条を持っておられたのではと思う。
記事によれば、微笑みさえ浮かべて、「霊界」へと旅立たれたそうだ。見事な死だったと思います。
丹波さん、ありがとうございました。
さようなら、丹波さん!!!!!
でも、「霊界」でまた会えるんですよね、だから、再会の楽しみがあるってことですよね。
ひとまず、さようなら。
かつて、貴方の子分だった「石川五右衛門」より。
俺の大好きな役者、丹波哲郎さんが亡くなられました。
9月24日午前11時27分。84歳でした。
無茶苦茶、哀しいです。今こうして打っていても、こみ上げて来る嗚咽にタイピングも途絶えがちです。
丹波さんとは、大河ドラマ「黄金の日々」で初めてご一緒させていただきました。
丹波さんが演じられたのは、堺の大豪商・今井宗久(織田信長との付き合いも深い武器商人という面もあった人物) 俺は、その今井宗久の雇われ人で、情報収集屋、いわば忍者の石川五右衛門を演らせた貰っていたわけです。
主従関係ですから当然、特にドラマの前半は丹波さんとご一緒出来る場面が多くて、俺が芝居の世界に入る以前に観た「007」で、ショーン・コネリーに負けない存在感を放っていた丹波哲郎という大俳優と、一緒に演じられる、そういう日々を本当に楽しみにしていました。
故・丹波哲郎さん
今井宗久の丹波さん。どうです、このこの面構え!
顔も身体もデッカくて立派だったけど、あの人の声の野太さとデカさ、良かったあ、好きだったなあ!!
だからといって、人に威圧感を与えるところはないんです。
大スターなのに、アングラ劇団から来てる生意気な若造の俺にも、フラットな対応をしてくれていました。
おおらかで、気さくで、人間としてスケールが大きい印象でした。日本の役者の世界では、非常に珍しいタイプのキャラクターを持ってらしたと思います。
「黄金の日々」の時、度々こんなことがありました。
丹波さんが出るシーンの開始時間になっても、スタジオの中に丹波さんはいつもいません。徐々にスタッフも共演者もジリジリしてきます。
そして、キッカリ30分後。あの太くデカイ声がスタジオ中に響きます。
「もう大丈夫だ、大丈夫だあ。オレが来たから大丈夫だあ」
かつらも衣装もキッチリ済ませた今井宗久の丹波さんが、堂々と、かつ悠然と、入ってくるんです。待たされていた皆は、思わず笑っちゃいます。
「もう大丈夫」って、そりゃそうだよ。
丹波さんっ、あなたが時間通り来てくんないから録画が中断してたんですぅ。アッケラカンとしてセットに上がり、何事も無かったかのように涼しい顔してスタンバイする丹波さん。
俺は、もう大受けでした。そして、すんごい人だと圧倒されました。
こんなことも印象深く思い出します。
今井宗久と五右衛門の二人きりのシーンの本番の時。
ワンテイク目終了。2階の副調整室から「オーケー!」の声が懸かりません。フロアーADの男性が丹波さんの側に寄って来て、手にした台本を開き、半分腰が引けながら小声で丹波さんに言いました。
「あの・・・、ここのところの台詞が、少し間違っていたかなと・・・」
丹波さん、ADが指し示した辺りを数秒間目を通した。
そして、あの声で、
「うん、しかし、意味は通じてるだろう、意味は。大丈夫だあ!」
と言い残し、ユッタリとセットから降りてスタジオを去って行かれた。唖然として見送るADや他のスタッフ達。これにも、まだ若造だった俺は驚かされました。
丹波さんの訃報記事の中に、家の中に仕事を持ち込まない主義だったとあったけれど、思い当たる場面を見たことがある。
大河ドラマを録るスタジオ入口の前には、メイク用ブースが4つ位ならんでいる。ある日、スタジオ入口から一番離れているブースの蛇腹パーテーションをザーっと開けたら、何と、あの丹波さんが、真剣な表情で付け人相手に台詞覚えをやってらしたのだ。
これは俺の憶測だけど、丹波さんはもの凄く台詞覚えが早かったのではないか? だから、自宅では台本は開かない。恐らく一度読めばほぼ頭に入ってしまうので、移動中の車内や、現場での待ち時間などに、サッと覚える。
つまり、同じ台詞を繰り返し練習する必要がないのだ。
この、繰り返して台詞を練習しないことは、台本に書かれた台詞を「生きてる言葉」「自然な、血の通ってる生々しい台詞まわし」にする秘訣なのです。これについては、またの機会に!
丹波さんの「意味は通じてるだろう」という言葉は、実は、作り物であるドラマ・映画・演劇での役者の物言う術の肝(キモ)をついてると思います。
ここからも推測になりますが、丹波さんは、おおらかに、そして一気にザッと台詞を入れる。あとは、本番を待つ。
台本との多少の違いなどモーマンタイ(無問題)。台詞を思い出すのも、自然な自分の間にしてしまう。そんな事よりもっと大事なのは、「演者が演じてる現在を生きていること」にいかに自信を持っているかだ。そういう信条を持っておられたのではと思う。
記事によれば、微笑みさえ浮かべて、「霊界」へと旅立たれたそうだ。見事な死だったと思います。
丹波さん、ありがとうございました。
さようなら、丹波さん!!!!!
でも、「霊界」でまた会えるんですよね、だから、再会の楽しみがあるってことですよね。
ひとまず、さようなら。
かつて、貴方の子分だった「石川五右衛門」より。
「このぉ、オオカミ少年!」2006年09月25日
皆さん、いかがお過ごしでしょうか? 根津甚八です。
庭のキンモクセイが咲き始めました。
窓を開けておくと、涼しい風に乗ってきた甘い香りが、ほのかに部屋中に漂い、身も心もトロトロにとろけそうです。
そう、香りには、人一倍敏感な、俺です。
花の香りの中で、一番好きなのがバラ。次にクチナシ。三番目が、今が季節のキンモクセイ。
秋もいよいよ本番です。
今回もまた、昔やらかしてしまったエピソードです。
今から30年位前になりますかね。
「さらば愛しき大地」という作品で、ベルリン映画祭に出席した時のことです。
始めは、映画祭に出ることは考えていませんでした。
というのは、この映画がコンペ部門に正式出品されると決まった時、映画祭での「さらば・・」の上映日と、俺のテレビドラマの撮影初日とがかち合ってしまっていたからです。
しかし、よおく考えてみれば、自分が主演した映画が、世界の3大映画祭の一つであるベルリン映画祭に出品されるなどということは滅多にあることではない。
(俺も行きたい。絶対に行きたあい!!!!)
と、我が儘を言って、マネージャーにテレビドラマのプロデューサーと交渉してもらい、4日間だけ、ベルリン映画祭に参加するための日程をもぎ取り、強引に同行することにしたのです。
一行は、柳町光男監督、俺のマネージャーIさん、俺の友人のTさんと俺の、男4名。真冬の西ベルリンへと飛び立った。
当時のドイツは、まだ東西に分断されていて、映画祭が開催される西ベルリンは東ドイツ領内のど真ん中にあって、東西冷戦の象徴である「ベルリンの壁」で囲まれていた。
当然、日本から西ベルリンへの直行便はなかったわけです。
で、成田空港を出るとフランクフルト空港で一旦西ドイツ領内に入り、ここで国内便(???)に乗り換えて、東ドイツ領の上空を飛び、西ベルリンに入ったのでした。
共産圏の上空を飛んでいる時、妙な緊張感を覚えたのを思い出します。
ベルリン映画祭は、カンヌ映画祭と比べると、かなり地味目で、どことなく学究的な雰囲気を持った映画祭でした。
慌ただしく自分の主演作の上映だけを見届け、柳町監督と記者会見にも同席し、翌朝には、俺一人だけ日本へ戻らなければならない。無理を言って取ってもらった日程だから、仕方が無い。帰国の翌日には、伊豆大島ロケのため、竹芝桟橋からフェリーに乗り込まねばならないのだ。
(ああ、皆と一緒に異国での映画祭をもっと楽しみたいなあ)
正直言って、ベルリンに残る3人が羨ましかった。
だが、仕事は待ってくれない。
(寂しい一人旅になるなあ。)
とガックリしていたところへ、力強い同行者が現れたのだ。
ドイツ語がベラベラな留学生O君である。
彼が、どういう経緯で、我々一行に混じってきたかは、全く思い出せない。恐らく、柳町監督の作品のファンで、押し掛けお手伝いといったところだったのではないかと思う。監督が、彼のドイツ語が便利だったので、知らぬ間にボランティア的パシリに使っていたのではないかと思う。
ま、それはこの際あまり重要ではない。肝心なことは、O君がドイツ語に堪能であったという一点である。
「根津さん、異国での一人旅は、チョット心もとないでしょう? フランクフルト迄一緒に行きますよ。僕はケルンでのお祭りを見物に行くついでだから、全然構いませんよ」
外国で言葉が通じないというのは、もの凄く心細いものである。寂しいものである。すんごいストレスである。
ドイツ語が得意な彼がフランクフルト空港までアテンドしてくれるなら、何の心配もいらない。
思わぬ助っ人の登場で、気が重かった帰りの一人旅が一気に気楽になった。
翌朝、映画祭に残る3人に見送られて、西ベルリンを出発。
タクシー料金の支払いから、搭乗手続き、ショッピング、もう何もかも、全てを留学生O君のドイツ語に委ねっぱなし。まるで、金魚の糞状態。
さて、フランクフルトに着いたら、な、な、なんと成田行きの国際便までのトランジットタイムが4時間半。どうやら雪のせいらしい。
「根津さん、市内見物でもしませんか?」
「え? 空港の外へ出られるの?」
「出来ますよ。どうします?」
「買い物も済んじゃったし、じゃ、そうしようか」
ってなことで、これといった当ても無くブラブラと市内見物。
小腹が空いたので、本場のフランクフルトソーセージで、ジョッキで生ビールを一杯。
これが実に旨い! 口にする物は、やはり鮮度が一番ってことですかね。
歩き疲れて空港に戻ったが、O君はまだまだ2時間以上ありますねというもんだから、カフェで最後の本場の生ビールを飲むことにした。
相変わらずドイツの生ビールは旨い!
それにしても、このトランジットタイムは長過ぎた。
人間、あまりに暇過ぎるとろくでもないことを考えるものだ。
(ベルリンに残った3人は、今頃、映画祭を満喫してるんだろうなあ・・・)
と、羨ましく思った瞬間、とんでもない悪戯がひらめいたのだった!!!
すみません、続きは次回にさせてもらいます。
しかあし、続編のアップは意外に早いかも。
一週間後には、必ず!
ではまた、お会いしましょう。
庭のキンモクセイが咲き始めました。
窓を開けておくと、涼しい風に乗ってきた甘い香りが、ほのかに部屋中に漂い、身も心もトロトロにとろけそうです。
そう、香りには、人一倍敏感な、俺です。
花の香りの中で、一番好きなのがバラ。次にクチナシ。三番目が、今が季節のキンモクセイ。
秋もいよいよ本番です。
今回もまた、昔やらかしてしまったエピソードです。
今から30年位前になりますかね。
「さらば愛しき大地」という作品で、ベルリン映画祭に出席した時のことです。
始めは、映画祭に出ることは考えていませんでした。
というのは、この映画がコンペ部門に正式出品されると決まった時、映画祭での「さらば・・」の上映日と、俺のテレビドラマの撮影初日とがかち合ってしまっていたからです。
しかし、よおく考えてみれば、自分が主演した映画が、世界の3大映画祭の一つであるベルリン映画祭に出品されるなどということは滅多にあることではない。
(俺も行きたい。絶対に行きたあい!!!!)
と、我が儘を言って、マネージャーにテレビドラマのプロデューサーと交渉してもらい、4日間だけ、ベルリン映画祭に参加するための日程をもぎ取り、強引に同行することにしたのです。
一行は、柳町光男監督、俺のマネージャーIさん、俺の友人のTさんと俺の、男4名。真冬の西ベルリンへと飛び立った。
当時のドイツは、まだ東西に分断されていて、映画祭が開催される西ベルリンは東ドイツ領内のど真ん中にあって、東西冷戦の象徴である「ベルリンの壁」で囲まれていた。
当然、日本から西ベルリンへの直行便はなかったわけです。
で、成田空港を出るとフランクフルト空港で一旦西ドイツ領内に入り、ここで国内便(???)に乗り換えて、東ドイツ領の上空を飛び、西ベルリンに入ったのでした。
共産圏の上空を飛んでいる時、妙な緊張感を覚えたのを思い出します。
ベルリン映画祭は、カンヌ映画祭と比べると、かなり地味目で、どことなく学究的な雰囲気を持った映画祭でした。
慌ただしく自分の主演作の上映だけを見届け、柳町監督と記者会見にも同席し、翌朝には、俺一人だけ日本へ戻らなければならない。無理を言って取ってもらった日程だから、仕方が無い。帰国の翌日には、伊豆大島ロケのため、竹芝桟橋からフェリーに乗り込まねばならないのだ。
(ああ、皆と一緒に異国での映画祭をもっと楽しみたいなあ)
正直言って、ベルリンに残る3人が羨ましかった。
だが、仕事は待ってくれない。
(寂しい一人旅になるなあ。)
とガックリしていたところへ、力強い同行者が現れたのだ。
ドイツ語がベラベラな留学生O君である。
彼が、どういう経緯で、我々一行に混じってきたかは、全く思い出せない。恐らく、柳町監督の作品のファンで、押し掛けお手伝いといったところだったのではないかと思う。監督が、彼のドイツ語が便利だったので、知らぬ間にボランティア的パシリに使っていたのではないかと思う。
ま、それはこの際あまり重要ではない。肝心なことは、O君がドイツ語に堪能であったという一点である。
「根津さん、異国での一人旅は、チョット心もとないでしょう? フランクフルト迄一緒に行きますよ。僕はケルンでのお祭りを見物に行くついでだから、全然構いませんよ」
外国で言葉が通じないというのは、もの凄く心細いものである。寂しいものである。すんごいストレスである。
ドイツ語が得意な彼がフランクフルト空港までアテンドしてくれるなら、何の心配もいらない。
思わぬ助っ人の登場で、気が重かった帰りの一人旅が一気に気楽になった。
翌朝、映画祭に残る3人に見送られて、西ベルリンを出発。
タクシー料金の支払いから、搭乗手続き、ショッピング、もう何もかも、全てを留学生O君のドイツ語に委ねっぱなし。まるで、金魚の糞状態。
さて、フランクフルトに着いたら、な、な、なんと成田行きの国際便までのトランジットタイムが4時間半。どうやら雪のせいらしい。
「根津さん、市内見物でもしませんか?」
「え? 空港の外へ出られるの?」
「出来ますよ。どうします?」
「買い物も済んじゃったし、じゃ、そうしようか」
ってなことで、これといった当ても無くブラブラと市内見物。
小腹が空いたので、本場のフランクフルトソーセージで、ジョッキで生ビールを一杯。
これが実に旨い! 口にする物は、やはり鮮度が一番ってことですかね。
歩き疲れて空港に戻ったが、O君はまだまだ2時間以上ありますねというもんだから、カフェで最後の本場の生ビールを飲むことにした。
相変わらずドイツの生ビールは旨い!
それにしても、このトランジットタイムは長過ぎた。
人間、あまりに暇過ぎるとろくでもないことを考えるものだ。
(ベルリンに残った3人は、今頃、映画祭を満喫してるんだろうなあ・・・)
と、羨ましく思った瞬間、とんでもない悪戯がひらめいたのだった!!!
すみません、続きは次回にさせてもらいます。
しかあし、続編のアップは意外に早いかも。
一週間後には、必ず!
ではまた、お会いしましょう。
黒合羽2006年09月11日
皆さん、いかがお過ごしでしょうか? 根津甚八です。
ここのところ、朝晩は大分過ごしやすくなってきましたね。
コンクリートとアスファルトで固められたこんな都会でも、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえ始め、なにやら、秋の気配さえ感じてしまう、今日この頃です。
蝉といえば、山梨にいたのころは、この時期になるとヒグラシの大合唱が
どこか寂しげに響き渡ってていたけど、東京では殆ど耳にしたことは無いですね。
それはさておき、今回もまた自転車にまつわるエピソードです。
あれは、確か、稽古場が土支田から中野に移った年の夏だった。
いつものように稽古を終えてから酒宴が始まり、夜中近くになっても盛り上がったまま、ひきつづき唐さん宅に席を変えて飲むことになった。唐さんは、稽古場とは別に、杉並区の大和町に一軒家を借りていた。
この頃もまだ、俺の自転車での稽古場通いは続いていた。
土支田の農道で修理不能となった自転車は、そのまま廃棄し、中古で手に入れたスポーツ車を愛用していた。
その日、午前中は天気が良かったので、稽古場には自転車で来ていた。
ところが、夕方から雲行きが怪しくなり、夜にはポツポツと小雨が降り始めていた。
さて、唐さん宅へ移動となった時、他の座員と一緒に電車で行けば良かったのに、我が愛車を、稽古場のあるマンションの前の道路脇に置いていくと、盗まれるのではと不安だった。
稽古場から唐さん宅まで、自転車で飛ばせば十数分の距離だ。この程度の雨ならそれほど濡れずに済む。そこで、酔い覚ましも兼ねて、夜の雨の中を、ひとり、自転車で大和町へ向かった。
早稲田通りに出た頃から、雨足が少しずつ強くなり、ホロ酔い加減の顔面に当たる雨粒が心地良い。
環七の大和陸橋を超えた辺りからは、雨足はさらに強さを増し、土砂降りとなってきた。顔面を打つ雨粒が、痛い。前方の視界も悪くなってきた。全身、下着も靴も雨水でタップタプである。
何故だろう、徹底的にグショ濡れになると、逆に気分はハイになる。
(ここまで来れば、あと数分だ。行けぇ、行けぇ~)
ペダルに力を込め、スピードを上げた。
と、その時、俺の真正面から、黒合羽に身を包んだ警官が、例の白い自転車でユックリと向かって来るのが、街灯に照らされてボンヤリ見えた。
思わずスピードを落とす、俺。
狭い歩道上を、変わらずユッタリと向かって来る警官の白い自転車。土砂降りの雨など、まるで気にならない様子。
互いの距離が詰まって来る。何故か、緊張する俺。
自転車の警官が、目前3メートルと迫った時、彼は、突然俺の行く手を遮ったのである。
「はい、チョット止まって~」
「何ですかっ」(急いでいた俺は、少しムッとした)
「・・・今から、どこへ行くの?」
「知り合いの家です」
「・・・何処からきたの?」
「・・・中野です」
学生時代の体験上、警察官に対しての偏見を拭いきれていなかったこともある、それにずぶ濡れで体が冷えていたこともあるが、まず、その横柄な言葉遣いにムカついた。そして、土砂降りの雨が降ってるというのに、雨をしのぐために近くの軒先へ案内することもなく、全身びしょ濡れの人間を、いきなり職務質問するという態度にムカついた。
「・・・この自転車は、君の?」
「そうですっ」
黒合羽の警官は、おれの自転車の登録証の番号をメモし、やおら無線を取り出すと、何処かへ問い合わせを始めたのだ。
すると、そこへ、運の悪いことにもう一人の黒合羽の警官が通りかかり、首を突っ込んで来た。最初の黒合羽が、二人目の黒合羽に何やら説明し始めた。俺の事は、土砂降りの中にほったらかし。
(もうアッタマにきた。明らかに、俺の中古で買った愛車を盗んだ自転車だと疑っている!! よしっ、こいつら、振り切ってやる。警官達の自転車は実用車、俺のはスポーツ車だ。勝てる。)
二人の隙を見て、俺は大雨の中を猛然とダッシュした!!!!!!
早稲田通りを直進してるまでは、俺の方が速かった。だが、このまま大通りを走っていては、彼らを巻けないと思い、細い路地へ入った。
角があれば、右へ左へとデタラメに曲がった。尾行する者を巻く時のセオリーだ。しかし、この判断が失敗であった。
スピードを目一杯上げて逃げ切りたくても、曲がり角の手前ではブレーキをかける必要がある。ところが、俺の自転車のブレーキは、雨のせいで殆ど効かないのだ。
角を曲がれば曲がるほど、黒合羽の二人がズンズン、ズンズン迫って来る。
(何でぇ~? こうなるの??)
そして、ついに黒合羽に追いつかれ、あえなく降参。スゴスゴと近所の交番までついて行き、再度問い合わせた結果、俺の嫌疑は晴れた。
惨めな濡れ鼠状態で、やっと唐さん宅にたどり着いたのであった。
真夜中に土砂降りの雨の中を、ズブ濡れで自転車を飛ばしていたら、そりゃ、不審者に見えても仕方がないですよね。気をつけましょう。
それから、雨天時、スポーツ車のブレーキ性能は、極端に落ちる。これにも気をつけましょう。
では、またお会いしましょう。
ここのところ、朝晩は大分過ごしやすくなってきましたね。
コンクリートとアスファルトで固められたこんな都会でも、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえ始め、なにやら、秋の気配さえ感じてしまう、今日この頃です。
蝉といえば、山梨にいたのころは、この時期になるとヒグラシの大合唱が
どこか寂しげに響き渡ってていたけど、東京では殆ど耳にしたことは無いですね。
それはさておき、今回もまた自転車にまつわるエピソードです。
あれは、確か、稽古場が土支田から中野に移った年の夏だった。
いつものように稽古を終えてから酒宴が始まり、夜中近くになっても盛り上がったまま、ひきつづき唐さん宅に席を変えて飲むことになった。唐さんは、稽古場とは別に、杉並区の大和町に一軒家を借りていた。
この頃もまだ、俺の自転車での稽古場通いは続いていた。
土支田の農道で修理不能となった自転車は、そのまま廃棄し、中古で手に入れたスポーツ車を愛用していた。
その日、午前中は天気が良かったので、稽古場には自転車で来ていた。
ところが、夕方から雲行きが怪しくなり、夜にはポツポツと小雨が降り始めていた。
さて、唐さん宅へ移動となった時、他の座員と一緒に電車で行けば良かったのに、我が愛車を、稽古場のあるマンションの前の道路脇に置いていくと、盗まれるのではと不安だった。
稽古場から唐さん宅まで、自転車で飛ばせば十数分の距離だ。この程度の雨ならそれほど濡れずに済む。そこで、酔い覚ましも兼ねて、夜の雨の中を、ひとり、自転車で大和町へ向かった。
早稲田通りに出た頃から、雨足が少しずつ強くなり、ホロ酔い加減の顔面に当たる雨粒が心地良い。
環七の大和陸橋を超えた辺りからは、雨足はさらに強さを増し、土砂降りとなってきた。顔面を打つ雨粒が、痛い。前方の視界も悪くなってきた。全身、下着も靴も雨水でタップタプである。
何故だろう、徹底的にグショ濡れになると、逆に気分はハイになる。
(ここまで来れば、あと数分だ。行けぇ、行けぇ~)
ペダルに力を込め、スピードを上げた。
と、その時、俺の真正面から、黒合羽に身を包んだ警官が、例の白い自転車でユックリと向かって来るのが、街灯に照らされてボンヤリ見えた。
思わずスピードを落とす、俺。
狭い歩道上を、変わらずユッタリと向かって来る警官の白い自転車。土砂降りの雨など、まるで気にならない様子。
互いの距離が詰まって来る。何故か、緊張する俺。
自転車の警官が、目前3メートルと迫った時、彼は、突然俺の行く手を遮ったのである。
「はい、チョット止まって~」
「何ですかっ」(急いでいた俺は、少しムッとした)
「・・・今から、どこへ行くの?」
「知り合いの家です」
「・・・何処からきたの?」
「・・・中野です」
学生時代の体験上、警察官に対しての偏見を拭いきれていなかったこともある、それにずぶ濡れで体が冷えていたこともあるが、まず、その横柄な言葉遣いにムカついた。そして、土砂降りの雨が降ってるというのに、雨をしのぐために近くの軒先へ案内することもなく、全身びしょ濡れの人間を、いきなり職務質問するという態度にムカついた。
「・・・この自転車は、君の?」
「そうですっ」
黒合羽の警官は、おれの自転車の登録証の番号をメモし、やおら無線を取り出すと、何処かへ問い合わせを始めたのだ。
すると、そこへ、運の悪いことにもう一人の黒合羽の警官が通りかかり、首を突っ込んで来た。最初の黒合羽が、二人目の黒合羽に何やら説明し始めた。俺の事は、土砂降りの中にほったらかし。
(もうアッタマにきた。明らかに、俺の中古で買った愛車を盗んだ自転車だと疑っている!! よしっ、こいつら、振り切ってやる。警官達の自転車は実用車、俺のはスポーツ車だ。勝てる。)
二人の隙を見て、俺は大雨の中を猛然とダッシュした!!!!!!
早稲田通りを直進してるまでは、俺の方が速かった。だが、このまま大通りを走っていては、彼らを巻けないと思い、細い路地へ入った。
角があれば、右へ左へとデタラメに曲がった。尾行する者を巻く時のセオリーだ。しかし、この判断が失敗であった。
スピードを目一杯上げて逃げ切りたくても、曲がり角の手前ではブレーキをかける必要がある。ところが、俺の自転車のブレーキは、雨のせいで殆ど効かないのだ。
角を曲がれば曲がるほど、黒合羽の二人がズンズン、ズンズン迫って来る。
(何でぇ~? こうなるの??)
そして、ついに黒合羽に追いつかれ、あえなく降参。スゴスゴと近所の交番までついて行き、再度問い合わせた結果、俺の嫌疑は晴れた。
惨めな濡れ鼠状態で、やっと唐さん宅にたどり着いたのであった。
真夜中に土砂降りの雨の中を、ズブ濡れで自転車を飛ばしていたら、そりゃ、不審者に見えても仕方がないですよね。気をつけましょう。
それから、雨天時、スポーツ車のブレーキ性能は、極端に落ちる。これにも気をつけましょう。
では、またお会いしましょう。