異形の役者体92007年05月28日
皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
庭の姫娑羅の葉が、いつの間にか枝一杯に生い繁っていました。
これだけ繁ると、かすかなそよ風でもそれぞれの葉が受けて増幅され枝を伝わって、幹ごとユラ~リユラ~リと優雅に揺れてくれます。
その日の風の強さによって様々な表情を見せて楽しませてくれる。この「ゆらぎ」は観る者の心に安らぎを与えてくれます。
昨日は久方ぶりの大雨。そして、今日は快晴。五月晴れ、というより夏日。チョット暑過ぎです。
この五月の天気の変化はホントに目まぐるしかった。
身体が追いつきませ~ん(‥;)
今回は、珍しく早々と本題に入るのだ。
状況劇場に入団してビックラしたことを上げれば、枚挙にいとまが無いけれど、稽古場の壁の上に、剣道場のように名札がズラリと下がっていたのには奇異な印象を持った、という話は前にしましたっけ?・・・うん、したした、 したな。
それぞれの名札には右肩に小さく劇団員、準劇団員,研究生とランク分けがされていた。
ところが、シモンの札にだけは「特別劇団員」と書いてあった。オンリーワン。四谷シモンだけである。
何が特別なのか? しばらくして、その訳がわかった。
状況劇場は、原則として年中無休。一年のうち、休みは大晦日と元旦、二日の三日間だけ。
あとは、稽古があろうがなかろうが、毎日稽古場に顔を出さなければならない。研究生も劇団員も、病気以外の休みは認められない。
「日曜はダメよ」ではなく、「日曜もダメよ」である。
ところが、シモンは、年二回の本公演の稽古と本番の日以外は稽古場に滅多に顔を出さない。
稽古の当初は、一週間ほど「戯曲分析」「本読み」をやってから、「立ち稽古」といって台本を持たない稽古に入るという段取りになっているのだが、シモンは「立ち稽古」に入っても、自分の出番寸前ぐらいからやっと稽古に参加してくるのが常であった。
状況劇場は、年に春・秋の2回の公演しか行わない。
つまり、一年のうち大体8ヶ月が稽古と本番。
俺が入った頃は、残りの4ヶ月間に定期的なイベントはない。
稽古場へ行っても、特にやらなければならない事は無いわけである。だからといって、劇団員、研究生に休みはない。
芝居とは直接関係のないこと、例えば座長を囲んで車座で酒盛りとか、座長を尋ねて来たお客さんを囲んで酒宴とか、みんなで映画を観に行ったりとか、急に全員でランニングとか・・・不定期に何がしかをやったりやらなかったりでのんびり過ごしていたように思う。
そんな特にこれといってすべき事何もない日に、シモンがフラリと現れることもあった。
大概は唐さんと酒を飲みながら芝居や芸術の話題で盛り上がっていたのだろうと思う。
唐さんとシモンの間には、暗黙のうちに何か通底しているもの、信頼と似通ったものがあった風に思えた。
つまり、その辺りが「特別」であったのだろう。
そんな、ある日のことである。
狭い洋間の稽古場で、いつものようにみんなで車座になって飲んでいた。シモンも来ていて、研究生の俺も末席に控えて飲んでいた。
唐さんが、こう言い出した。
「そろそろ根津にも芸名をつけなくちゃな。何か自分で考えてるのはあるか?」
「学生の時唐さんに無断で『ジョン・シルバー』を学内上演した時にですね」
「・・・」
「当時、僕は日暮里にアパート住まいをしていたんで、『日暮里ランボー』て名乗ってました。ランは花の蘭でボーは坊主の坊です」
「そりゃ、ダメだな。昔うちに『アル中(チュウ)・ランボー』っていう役者がいたんだよ。ランボーは乱暴者の乱暴だけどな」
「あ、アル中ですか・・・」
「名字の根津を生かした方がいいんじゃないか? な、シモンちゃん?」
と唐さんが言った時のシモンの反応は早かった。
「ネエ、根津やえがきちょう(八重垣町)ってぇのはどう?」
「・・・(う~ん、やえがきちょうて、何? ちょうって町の名前じゃん)」と、心の中で困惑する俺。
「いいんじゃない、根津やえがきちょう!」
ここで唐さん。
「真田十勇士の一人に根津甚八というのがいたよな、あまり活躍しないけど・・・」
「いたねえ」と、誰か。俺もそれぐらいは知っている。ガキの頃、長兄の立川文庫の「真田十勇士」を盗み読んだことがあったのだ。
「根津甚八・・うん、いいんじゃないか。硬い感じがして・・・
ヨシ、これでいこう!」と、唐さん。
「はい。」と言うしかない俺。
こうして、翌日から俺は根津透から役者「根津甚八」となったわけである。
当時俺は21才の尻青き若造だから、「ジンパチかあ、何かおっさん臭くて嫌だなあ」というのが正直な気持ちであった。が、テント芝居のカーテンコールで、唐さんに「○○を演じましたネヅジンパチっ!」と紹介されるごとにつれて慣れていった、というより役者「甚八」になっていった。
以前ネットで自分を検索したら、芸名の由来に「舞台で真田十勇士・根津甚八を演じたから」とあったけれど、間違いですからねえ。これが命名の真実の由来です。
それにしても、シモンが言った『根津八垣町』に決まらなくて本当に良かったあ!
そうそう、シモンの十八番「お銀の唄」の二番のシモン流ギャグの話でしたね。
では、四谷シモンの登場で~す。
客席から「シモンちゃん!」の掛け声が聞こえるような気がするな。
♪♪♪ ・・・
今度は自転車屋に女中奉公
ここの旦那はヨイヨイで 間違う心配はないけれど
バカ息子のヨッちゃんが
夜な夜な フトンにもぐり込んで
どうしたの ヨッちゃん こんなに冷たい足入れてきて
あたしが いくら拒否しても
ゲタゲタ笑いのヨッちゃんは
お銀のほおずきしゃぶらせろ
お銀のほおずき どこでとれる
こんなほおずき いっぺん買って
プシュプシュ プシュプシュ つぶしてえな
冗談こくな このバカが バカにおもちゃにされるもんか
すると障子がスルリと開いて 誰かと思うたら
ヨイヨイじじい ニッパ片手にこう叫ぶじゃない
「パンクはどこじゃ パンクだせ」
いきなり お乳をつまみあげ
口にほおばって 息いれます
これはチューブじゃござんせん
ヨイヨイじいさん目の色変えて
それでも フーフー息入れます
そのうちバカのヨッちゃんと ヨイヨイじいさんがもつれ合い ほおずきかパンクかで 殴り合い
すげなく あたしは とび出して
ぞうり片手に 夜の道 トボトボトボトボどこ行くか
星に聞いても 答えやせん
シーンとふけゆく 夜の江戸
夜つゆにぬれて しみじみと
女の業の悲しさを 嬉し笑いで知ったのさ ♪♪♪
シモンはこの終盤のトボトボを、
「♪・・・トボトボトボトボ、トボトボトボトボ、トボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボ・・・
(おしまいは早すぎて何を言ってるのかわからない)・・・」
と、テンポを急にアップし始めて、超早口で30回ぐらいのリフレインする。
意味はない。意味がないことに懸命になるから面白い。
そして、歌ってる本人もそのナンセンスさに吹き出してしまうのだ。
その終盤前までを情感タップリに歌い上げてるものだから、ギャップの大きさに聞き入っている全員は腹を抱えんばかりの大笑いである。
そういえば、「吸血姫(きゅうけつき)」という芝居で、こんなことがあった。
俺の役は「肥後の守」という歌手志望の少年役で、入団2年にして初めてソロで、それも自らのギター一本の伴奏で歌うシーンがあるのだ。それも主題歌をである。
さらに唐さんは、「作曲もやってみろ」ときた。
ただしヒントをくれた。
唐さんはよく「今夜、深夜映画劇場でいいのをやるぞ」
と研究生に教えてくれることがあった。
「吸血姫」の稽古に入る直前だったか、ジュールス・ダッシンの映画「死んでもいい」をすすめられてテレビで観て感動したことがあった。
「死んでもいい」はメリナ・メルクーリとアンソニー・パーキンスとの悲恋物。原題は「フェードラ」。
暖炉の前での義母との禁じられたラブシーン。アンソニー・パーキンスが、愛に絶望しアリアを歌いながら、フェラーリで猛スピードで海岸線の道を飛ばし、そのまま海へ突っ込んでいくシーン・・・。
ギリシャ悲劇「フェードラ」を土台にしているだけあって、骨太な悲恋物で見応えがある。
また、義母・フェードラ役のギリシャの大女優メリナ・メリクーリの演技が凄い!
監督ジュールス・ダッシンの奥さんで、後にギリシャの国会議員になった。
ま、そんな豆知識れはいいとして
この「死んでもいい」のギリシャ風主題曲がまたいいのだ。
名画はいずれもそうだけど、監督も役者も美術も音楽も全ていい!
で、唐さんのヒントは、「死んでもいい」の主題曲をパクればいいということであった。
「夏の海辺にいったとき 誰も見た事もないものを見た
・ ・・・・・」
一応挑戦してはみたものの、2行で挫折。
結局、続きは小室等さんに補足して作曲してもらった。
本番を寸前に控えて、古道具屋で買った安ギターを自分で白にペイントし準備万端。
舞台での初めてのソロ。嬉しさの半面心細さもあった。
本番を2,3回終えたある日、俺は座長に呼ばれた。
「あそこさ、シモンにも出てきてもらって、二人で歌うことにするから」
自分でも気付いていた。歌はつたない上に声量がない。
テント劇場は、要するに壁も天井も布で出来ているわけだから音は殆ど反響しない。俺の歌声は後ろの客まで届いていなかったのだ。
高石かつえ役のシモンが何故か登場、肥後の守とともに歌い出す。
シモンの技量に助けられた。
すみません。本から撮ったのでシモンの鼻が消えてしまった。
でもこの時は、本当にシモンの歌の巧さに助けられたのでありました。
では今回は、このへんで失礼いたします。
また、お会いしましょう。
庭の姫娑羅の葉が、いつの間にか枝一杯に生い繁っていました。
これだけ繁ると、かすかなそよ風でもそれぞれの葉が受けて増幅され枝を伝わって、幹ごとユラ~リユラ~リと優雅に揺れてくれます。
その日の風の強さによって様々な表情を見せて楽しませてくれる。この「ゆらぎ」は観る者の心に安らぎを与えてくれます。
昨日は久方ぶりの大雨。そして、今日は快晴。五月晴れ、というより夏日。チョット暑過ぎです。
この五月の天気の変化はホントに目まぐるしかった。
身体が追いつきませ~ん(‥;)
今回は、珍しく早々と本題に入るのだ。
状況劇場に入団してビックラしたことを上げれば、枚挙にいとまが無いけれど、稽古場の壁の上に、剣道場のように名札がズラリと下がっていたのには奇異な印象を持った、という話は前にしましたっけ?・・・うん、したした、 したな。
それぞれの名札には右肩に小さく劇団員、準劇団員,研究生とランク分けがされていた。
ところが、シモンの札にだけは「特別劇団員」と書いてあった。オンリーワン。四谷シモンだけである。
何が特別なのか? しばらくして、その訳がわかった。
状況劇場は、原則として年中無休。一年のうち、休みは大晦日と元旦、二日の三日間だけ。
あとは、稽古があろうがなかろうが、毎日稽古場に顔を出さなければならない。研究生も劇団員も、病気以外の休みは認められない。
「日曜はダメよ」ではなく、「日曜もダメよ」である。
ところが、シモンは、年二回の本公演の稽古と本番の日以外は稽古場に滅多に顔を出さない。
稽古の当初は、一週間ほど「戯曲分析」「本読み」をやってから、「立ち稽古」といって台本を持たない稽古に入るという段取りになっているのだが、シモンは「立ち稽古」に入っても、自分の出番寸前ぐらいからやっと稽古に参加してくるのが常であった。
状況劇場は、年に春・秋の2回の公演しか行わない。
つまり、一年のうち大体8ヶ月が稽古と本番。
俺が入った頃は、残りの4ヶ月間に定期的なイベントはない。
稽古場へ行っても、特にやらなければならない事は無いわけである。だからといって、劇団員、研究生に休みはない。
芝居とは直接関係のないこと、例えば座長を囲んで車座で酒盛りとか、座長を尋ねて来たお客さんを囲んで酒宴とか、みんなで映画を観に行ったりとか、急に全員でランニングとか・・・不定期に何がしかをやったりやらなかったりでのんびり過ごしていたように思う。
そんな特にこれといってすべき事何もない日に、シモンがフラリと現れることもあった。
大概は唐さんと酒を飲みながら芝居や芸術の話題で盛り上がっていたのだろうと思う。
唐さんとシモンの間には、暗黙のうちに何か通底しているもの、信頼と似通ったものがあった風に思えた。
つまり、その辺りが「特別」であったのだろう。
そんな、ある日のことである。
狭い洋間の稽古場で、いつものようにみんなで車座になって飲んでいた。シモンも来ていて、研究生の俺も末席に控えて飲んでいた。
唐さんが、こう言い出した。
「そろそろ根津にも芸名をつけなくちゃな。何か自分で考えてるのはあるか?」
「学生の時唐さんに無断で『ジョン・シルバー』を学内上演した時にですね」
「・・・」
「当時、僕は日暮里にアパート住まいをしていたんで、『日暮里ランボー』て名乗ってました。ランは花の蘭でボーは坊主の坊です」
「そりゃ、ダメだな。昔うちに『アル中(チュウ)・ランボー』っていう役者がいたんだよ。ランボーは乱暴者の乱暴だけどな」
「あ、アル中ですか・・・」
「名字の根津を生かした方がいいんじゃないか? な、シモンちゃん?」
と唐さんが言った時のシモンの反応は早かった。
「ネエ、根津やえがきちょう(八重垣町)ってぇのはどう?」
「・・・(う~ん、やえがきちょうて、何? ちょうって町の名前じゃん)」と、心の中で困惑する俺。
「いいんじゃない、根津やえがきちょう!」
ここで唐さん。
「真田十勇士の一人に根津甚八というのがいたよな、あまり活躍しないけど・・・」
「いたねえ」と、誰か。俺もそれぐらいは知っている。ガキの頃、長兄の立川文庫の「真田十勇士」を盗み読んだことがあったのだ。
「根津甚八・・うん、いいんじゃないか。硬い感じがして・・・
ヨシ、これでいこう!」と、唐さん。
「はい。」と言うしかない俺。
こうして、翌日から俺は根津透から役者「根津甚八」となったわけである。
当時俺は21才の尻青き若造だから、「ジンパチかあ、何かおっさん臭くて嫌だなあ」というのが正直な気持ちであった。が、テント芝居のカーテンコールで、唐さんに「○○を演じましたネヅジンパチっ!」と紹介されるごとにつれて慣れていった、というより役者「甚八」になっていった。
以前ネットで自分を検索したら、芸名の由来に「舞台で真田十勇士・根津甚八を演じたから」とあったけれど、間違いですからねえ。これが命名の真実の由来です。
それにしても、シモンが言った『根津八垣町』に決まらなくて本当に良かったあ!
そうそう、シモンの十八番「お銀の唄」の二番のシモン流ギャグの話でしたね。
では、四谷シモンの登場で~す。
客席から「シモンちゃん!」の掛け声が聞こえるような気がするな。
♪♪♪ ・・・
今度は自転車屋に女中奉公
ここの旦那はヨイヨイで 間違う心配はないけれど
バカ息子のヨッちゃんが
夜な夜な フトンにもぐり込んで
どうしたの ヨッちゃん こんなに冷たい足入れてきて
あたしが いくら拒否しても
ゲタゲタ笑いのヨッちゃんは
お銀のほおずきしゃぶらせろ
お銀のほおずき どこでとれる
こんなほおずき いっぺん買って
プシュプシュ プシュプシュ つぶしてえな
冗談こくな このバカが バカにおもちゃにされるもんか
すると障子がスルリと開いて 誰かと思うたら
ヨイヨイじじい ニッパ片手にこう叫ぶじゃない
「パンクはどこじゃ パンクだせ」
いきなり お乳をつまみあげ
口にほおばって 息いれます
これはチューブじゃござんせん
ヨイヨイじいさん目の色変えて
それでも フーフー息入れます
そのうちバカのヨッちゃんと ヨイヨイじいさんがもつれ合い ほおずきかパンクかで 殴り合い
すげなく あたしは とび出して
ぞうり片手に 夜の道 トボトボトボトボどこ行くか
星に聞いても 答えやせん
シーンとふけゆく 夜の江戸
夜つゆにぬれて しみじみと
女の業の悲しさを 嬉し笑いで知ったのさ ♪♪♪
シモンはこの終盤のトボトボを、
「♪・・・トボトボトボトボ、トボトボトボトボ、トボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボ・・・
(おしまいは早すぎて何を言ってるのかわからない)・・・」
と、テンポを急にアップし始めて、超早口で30回ぐらいのリフレインする。
意味はない。意味がないことに懸命になるから面白い。
そして、歌ってる本人もそのナンセンスさに吹き出してしまうのだ。
その終盤前までを情感タップリに歌い上げてるものだから、ギャップの大きさに聞き入っている全員は腹を抱えんばかりの大笑いである。
そういえば、「吸血姫(きゅうけつき)」という芝居で、こんなことがあった。
俺の役は「肥後の守」という歌手志望の少年役で、入団2年にして初めてソロで、それも自らのギター一本の伴奏で歌うシーンがあるのだ。それも主題歌をである。
さらに唐さんは、「作曲もやってみろ」ときた。
ただしヒントをくれた。
唐さんはよく「今夜、深夜映画劇場でいいのをやるぞ」
と研究生に教えてくれることがあった。
「吸血姫」の稽古に入る直前だったか、ジュールス・ダッシンの映画「死んでもいい」をすすめられてテレビで観て感動したことがあった。
「死んでもいい」はメリナ・メルクーリとアンソニー・パーキンスとの悲恋物。原題は「フェードラ」。
暖炉の前での義母との禁じられたラブシーン。アンソニー・パーキンスが、愛に絶望しアリアを歌いながら、フェラーリで猛スピードで海岸線の道を飛ばし、そのまま海へ突っ込んでいくシーン・・・。
ギリシャ悲劇「フェードラ」を土台にしているだけあって、骨太な悲恋物で見応えがある。
また、義母・フェードラ役のギリシャの大女優メリナ・メリクーリの演技が凄い!
監督ジュールス・ダッシンの奥さんで、後にギリシャの国会議員になった。
ま、そんな豆知識れはいいとして
この「死んでもいい」のギリシャ風主題曲がまたいいのだ。
名画はいずれもそうだけど、監督も役者も美術も音楽も全ていい!
で、唐さんのヒントは、「死んでもいい」の主題曲をパクればいいということであった。
「夏の海辺にいったとき 誰も見た事もないものを見た
・ ・・・・・」
一応挑戦してはみたものの、2行で挫折。
結局、続きは小室等さんに補足して作曲してもらった。
本番を寸前に控えて、古道具屋で買った安ギターを自分で白にペイントし準備万端。
舞台での初めてのソロ。嬉しさの半面心細さもあった。
本番を2,3回終えたある日、俺は座長に呼ばれた。
「あそこさ、シモンにも出てきてもらって、二人で歌うことにするから」
自分でも気付いていた。歌はつたない上に声量がない。
テント劇場は、要するに壁も天井も布で出来ているわけだから音は殆ど反響しない。俺の歌声は後ろの客まで届いていなかったのだ。
高石かつえ役のシモンが何故か登場、肥後の守とともに歌い出す。
シモンの技量に助けられた。
すみません。本から撮ったのでシモンの鼻が消えてしまった。
でもこの時は、本当にシモンの歌の巧さに助けられたのでありました。
では今回は、このへんで失礼いたします。
また、お会いしましょう。
異形の役者体82007年05月22日
皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
この一週間は五月らしい爽やかな日は少なかったですねえ。
雨は降るし、ムシムシする日が多かった。
天気が悪いと、気分も多少沈みがちになります。低い気圧は脳にそんな影響を与えるらしいですよ。
土曜は朝から雨。
シットリと雨に打たれたツツジです。
と思ったら、日曜はうって変って五月晴れ。
運良く知り合いの別荘で開かれたバーベキューパーティーに呼ばれていて、ウキウキと出掛けてきました。
午前中は雲一つなく、午後になってポッカリといくつか雲が浮かんできたものの、風はそよ風、もう絶好のバーベキュー日和でありました。
ホントに気持ちのいい空だった。
ナンに手作りカレー、本格的タコス、BQでムール貝、烏賊、アスパラベーコン巻き、ハンバーグ等々・・・美味しいものをたらふく御馳走になりました(*⌒O⌒*)
さらに、おまけに本物の薬用アロマオイルでマッサージまで・・・これは、妻からだけど。
今年一番の五月晴れの大空の下で、幸せな一時を過ごしました。
集まった人たちも、みんな素朴でいい人たちばかりで、言う事無し!!!
いや、ブットンデた男が約一名いたなぁ。この人はかなり凄かった。
(でも、その話は、俺がその人が書いた凄まじい体験本を読んでからのお楽しみということにします! (◎_◎)すること、マジで請け合います。)
腹一杯食ってビールもワインもいっちゃえば、こうなるよね。
きっと天国にいるような気分なんだろうな。
実はこの坊主頭の男が、さっき言ったブットンデたスンゴイ人、ではなく俺の甥っ子で、スティールカメラマンをやってる根津修平。
彼は、一時俳優やったりして、その後フィンランドで本格的にスキーをやっていたんだけれど、俺の好きな言葉、「ひょんなこと」からカメラマンになってしまった。
ググルとカメラマンとして載ってるんだよな。ビックらしちゃったね(◎_◎)
と、マクラはこの辺で、本題へ。
そうなんです。四谷シモンは元ロカビリー歌手だったことがあるのです。
この辺りの事情や、人形との出会い、唐さんとの出会い・・・など、不良少年から人形作家への道のりは、シモンが4、5年前に出した「人形作家」という半生記的な本に詳しく書いてあるので、そちらをお読み下さい。
嵐山光三郎さんが「青春の暴風圏」と表現してるけど、読んだ後、シモンの荒波の半生を初めて知って驚いた驚いた!
身近な人のこういった話って、余計に胸に迫るものです。
俺が入団したての頃、芝居がはねた後の稽古場での宴会で、皆でよく歌を歌うことが多かった。
その中でもいつも真打ち登場ってのがシモンであった。
それは、1968年花園神社での「由比正雪」におけるシモンの役・的場のお銀の唄であった。
♪うちがマジしかった(じゃない)貧しかったので~、
小さい頃から油屋奉公
寺子屋にも通えず 年に一度のほおずき市に行けるだけ
油屋のおかみさんは いじわるで
あたしが 旦那と何かありゃしないかと
年がら年中 びくびくで
ほうき持っちゃ ジロリ ごはんよそっちゃ ジロリ
旦那の顔見ちゃ ジロリ
そんなに気にされちゃ 気がない旦那もその気になって
ある夜 お風呂の帰りのあたしをば
ゴミ箱のかげに手招いて
お銀こちゃこい 尻出せ どうだば
好きでもないのに 身をまかせ
とうとうかみさんにもバレちゃって
ある夜 風呂敷片手にもって
・・・♪♪♪
これで、まだワンコーラス。二番まであるのだ。
台本では3ページにも及ぶ。シャンソンみたいに超長い。
この唄が、稽古場の酒宴でよく聞いたシモンの十八番である。
今思い出しても、面白いし、泣けるし、ホントに良い唄だと思う。
哀しみたっぷりに切々と歌う中で、シモン流のナンセンスギャグのアドリブが入る。(そういえば、シモンは「たっぷりネ、たっぷり!」が好きだった。)
ここにさしかかると、座員一同馬鹿ウケ、シモンは、みんなが腹がよじれそうになるまで、ナンセンスギャグを「たっぷり」とやる。
そのパートは二番の後半にあるので、次回に紹介することにしましょう。
で、ある時、少しばかりギターが弾けるものだから、俺が突如シモンの唄の伴奏する羽目になった。
シモンは歌いながら、コードの指示を出す。
「♪・・・貧しかったので~、エーマイナー~、ちいさい頃から、油屋ぼ~こ~デーマイナー・・・♪♪♪・・・」
弾いてみれば何のことはない。 Am C Dm で最後迄まで伴奏できてしまった。音楽的にはシンプルそのもの。
つまり、この超ロングな歌詞のこの唄は、シモンの表現力で持っていたということの何よりの証だろう。
シモンは、かつてロカビリー歌手を目指してキチンと先生について発声法を習っていた。
そして、プロとしてライブハウスのステージもこなしていた経歴があったのだもの、素人など足元にも及ばないのは当たり前のコンコンチキだったのである。
そして、ある芝居で、ナ、ナ、ナント、春の芝居の主題曲を、俺がシモンとデュオすることになるのである。
どうなっちゃうの???
次回の続きをお楽しみに(^0^)
では、今回はこのへんで失礼します。
皆さん、またお会いしましょう。
この一週間は五月らしい爽やかな日は少なかったですねえ。
雨は降るし、ムシムシする日が多かった。
天気が悪いと、気分も多少沈みがちになります。低い気圧は脳にそんな影響を与えるらしいですよ。
土曜は朝から雨。
シットリと雨に打たれたツツジです。
と思ったら、日曜はうって変って五月晴れ。
運良く知り合いの別荘で開かれたバーベキューパーティーに呼ばれていて、ウキウキと出掛けてきました。
午前中は雲一つなく、午後になってポッカリといくつか雲が浮かんできたものの、風はそよ風、もう絶好のバーベキュー日和でありました。
ホントに気持ちのいい空だった。
ナンに手作りカレー、本格的タコス、BQでムール貝、烏賊、アスパラベーコン巻き、ハンバーグ等々・・・美味しいものをたらふく御馳走になりました(*⌒O⌒*)
さらに、おまけに本物の薬用アロマオイルでマッサージまで・・・これは、妻からだけど。
今年一番の五月晴れの大空の下で、幸せな一時を過ごしました。
集まった人たちも、みんな素朴でいい人たちばかりで、言う事無し!!!
いや、ブットンデた男が約一名いたなぁ。この人はかなり凄かった。
(でも、その話は、俺がその人が書いた凄まじい体験本を読んでからのお楽しみということにします! (◎_◎)すること、マジで請け合います。)
腹一杯食ってビールもワインもいっちゃえば、こうなるよね。
きっと天国にいるような気分なんだろうな。
実はこの坊主頭の男が、さっき言ったブットンデたスンゴイ人、ではなく俺の甥っ子で、スティールカメラマンをやってる根津修平。
彼は、一時俳優やったりして、その後フィンランドで本格的にスキーをやっていたんだけれど、俺の好きな言葉、「ひょんなこと」からカメラマンになってしまった。
ググルとカメラマンとして載ってるんだよな。ビックらしちゃったね(◎_◎)
と、マクラはこの辺で、本題へ。
そうなんです。四谷シモンは元ロカビリー歌手だったことがあるのです。
この辺りの事情や、人形との出会い、唐さんとの出会い・・・など、不良少年から人形作家への道のりは、シモンが4、5年前に出した「人形作家」という半生記的な本に詳しく書いてあるので、そちらをお読み下さい。
嵐山光三郎さんが「青春の暴風圏」と表現してるけど、読んだ後、シモンの荒波の半生を初めて知って驚いた驚いた!
身近な人のこういった話って、余計に胸に迫るものです。
俺が入団したての頃、芝居がはねた後の稽古場での宴会で、皆でよく歌を歌うことが多かった。
その中でもいつも真打ち登場ってのがシモンであった。
それは、1968年花園神社での「由比正雪」におけるシモンの役・的場のお銀の唄であった。
♪うちがマジしかった(じゃない)貧しかったので~、
小さい頃から油屋奉公
寺子屋にも通えず 年に一度のほおずき市に行けるだけ
油屋のおかみさんは いじわるで
あたしが 旦那と何かありゃしないかと
年がら年中 びくびくで
ほうき持っちゃ ジロリ ごはんよそっちゃ ジロリ
旦那の顔見ちゃ ジロリ
そんなに気にされちゃ 気がない旦那もその気になって
ある夜 お風呂の帰りのあたしをば
ゴミ箱のかげに手招いて
お銀こちゃこい 尻出せ どうだば
好きでもないのに 身をまかせ
とうとうかみさんにもバレちゃって
ある夜 風呂敷片手にもって
・・・♪♪♪
これで、まだワンコーラス。二番まであるのだ。
台本では3ページにも及ぶ。シャンソンみたいに超長い。
この唄が、稽古場の酒宴でよく聞いたシモンの十八番である。
今思い出しても、面白いし、泣けるし、ホントに良い唄だと思う。
哀しみたっぷりに切々と歌う中で、シモン流のナンセンスギャグのアドリブが入る。(そういえば、シモンは「たっぷりネ、たっぷり!」が好きだった。)
ここにさしかかると、座員一同馬鹿ウケ、シモンは、みんなが腹がよじれそうになるまで、ナンセンスギャグを「たっぷり」とやる。
そのパートは二番の後半にあるので、次回に紹介することにしましょう。
で、ある時、少しばかりギターが弾けるものだから、俺が突如シモンの唄の伴奏する羽目になった。
シモンは歌いながら、コードの指示を出す。
「♪・・・貧しかったので~、エーマイナー~、ちいさい頃から、油屋ぼ~こ~デーマイナー・・・♪♪♪・・・」
弾いてみれば何のことはない。 Am C Dm で最後迄まで伴奏できてしまった。音楽的にはシンプルそのもの。
つまり、この超ロングな歌詞のこの唄は、シモンの表現力で持っていたということの何よりの証だろう。
シモンは、かつてロカビリー歌手を目指してキチンと先生について発声法を習っていた。
そして、プロとしてライブハウスのステージもこなしていた経歴があったのだもの、素人など足元にも及ばないのは当たり前のコンコンチキだったのである。
そして、ある芝居で、ナ、ナ、ナント、春の芝居の主題曲を、俺がシモンとデュオすることになるのである。
どうなっちゃうの???
次回の続きをお楽しみに(^0^)
では、今回はこのへんで失礼します。
皆さん、またお会いしましょう。
異形の役者体72007年05月14日
皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
風を感じる屋外は心地良いけれど、屋内で何かに熱中していると、よく晴れた日は初夏とも思えるほど室温は上がり、おでこやら鼻の頭やらが汗ばんできます。
まだ五月だというのに、どこか薄気味悪いこの暑さ。
地球温暖化のことが頭をよぎります。
先頃、映画「不都合な真実」のキャンペーンで来日していたアル・ゴア氏の角張った顔が浮かんできます。
10年前に行ったキリバス共和国のクリスマス島の夢のような風景が、くっきりと思い出されます。あの島の標高は最も高い場所で8メートルしかない。
この不思議な島を訪れた目的は、勿論とびっきりのフライフィッシングを楽しむため。
狙いは、フライフィッシャー憧れのボーンフィッシュ。
俺が行った時点で、すでにキリバス共和国他の島々から移住し始めていて、島の人口は10年前の3倍になったとガイドは言っていた。現在、クリスマス島周辺の海面上昇は、10年前よりも進んでいることは間違いないところだろう。
こままいけば、数十年後には島ごと国土は消滅する運命にある。
ここだけではない。奇跡としか言いようのない美しい大自然、動植物が地球規模で失われつつあるのだ。
自分の足元で出来ることからやっていく。まずは、そこから始めるより他に道はないんだろうな。
エコロジーなんて無縁の昔は、のびやかで良かったなあ。
日本が今ほど豊かではなく、俺がまだ山梨に住んでいた頃、のんびりとして、逆にある意味では今より贅沢だったような気がする。
貧しかったし、不便だったり不衛生だったりしたかもしれないけれど、そんなこと渦中の自分は少しも感じてはいなかった。充分に楽しんで毎日暮らしていた。いや、日々の楽しみの質が、今とは違っていたと思う。
火、風、水、土を、毎日の生活の中で直接肌に感じていた。
近頃、無性に山梨での日々が懐かしくなることがある。
俺の父親は歯科医であった。生まれは山梨県・日川村。
元は東京で開業していたのだが、空襲で焼け出され、自分の郷里ではなく、疎開予定先の同じ山梨の都留市にあった伯母(母の姉)の大きな家に兄達二人を連れて転がり込み、二階を待合い室と診察室にして開業していた。
上の二人は、それぞれ中国の北京、塘沽(タンクウ)で生まれている。俺と弟は、母の郷里・都留市で生まれた。
父は一日中家にいて、二階で仕事をしていた。
当時は技工士という職業はなく、歯医者が自ら患者の歯も作っていた。父の作った歯は壊れず長持ちがするという評判だったというから、技術は高かったのだろう。
二人の兄たちとは年が離れていたので、二才下の弟とよく遊び、喧嘩もしたが、その度に父が仕事を中断して階段をドンッドンッとどでかい音をたてて降りて来る。この音が聞こえた途端、二人は取っ組み合いをやめてそしらぬ顔を決め込むのだが、父はズカズカとやって来ていきなり二人の襟首を掴み、
「喧嘩は両成敗っ!」
の言葉と同時に、ガツンと俺たち二人の頭を鉢合わせ。
こいつをやられると、いつも頭の周りで星がクルクル回ったものである。
確かに今時のお父さんと比べたら、横暴な面はあったかもしれない。でも、家父長としての威厳に満ちていて、ある面格好良かった。
典型的な亭主関白主義の家庭のあの懐かしの「お膳返し」は、どうやって生まれ、一体いつ頃から日本中を席巻したのだろうか?ってな疑問は前回だったか、ブログで提示させてもらったが、一切反応はない。
ま、自分で調べろってことだろうが、どこでどう調べれば良いのか見当もつかない。う~ん、だがやはり気になる・・・。
俺が生まれた家で、父の家父長としての権威を最もよく現わしていたのが、元旦のお屠蘇を頂く儀式であった。
このセレモニーに使われる盃は、子供の目にもその大きさといい、鈍く光る質感と盃の中に見える紋様といい、その盃の醸し出していた上品さはわかった。
ひとつには菊の御紋が、もうひとつには桐の花の柄が彫金されていた。
事件って何だ?
こんな立派な銀杯が、どうして我が家にあったのか?
そこで、現在銀杯を受け継いでいる長兄に尋ねたら、こんなメールが返ってきました。
「昔我が家には銀杯が二つありました。
一つは曽祖父が賜った銀杯で、もう一つは祖父根津芳造さんが
賜ったものです。芳造さんが賜った銀杯は喜久恵祖母が勤叔父さん
家に譲った筈です。
この銀杯は曽祖父根津嘉市郎が賜ったものですが、
「事件」というのは犯罪に関わるものではなく、
当時笛吹川が氾濫し、日川村一帯も大被害に見舞われた際、
獅子奮迅の働きで職務を全うしたのでしょう。
この為、表彰とこの銀杯を賜ったという訳です。
今でも天皇陛下が下賜される銀杯がありますが、かなり小ぶりなものです。」
そういう由来であったのか!
俺も初めて知った、という間抜けな話ですが、確かに根津家にあった銀杯は径が20センチぐらい、深さは3センチぐらいの銀製で、上の写真のように中に径10数センチの大きな菊の御紋章が彫金されていた。
銀杯は子供の手にはズシリと重く、その大きさと渋い銀の輝きは父の家父長としての威厳そのものであったような気がする。
清々しい空気の一月一日の朝。
一張羅の和服を着て、上座にデンと座した父を中心に、この銀杯を押し頂いての厳かな儀式で一年が始まるという、いま思えば、贅沢でゆったりとした元旦らしい元旦であった。
いやあ、まくらが主題みたいになってしまいました。
それでは、お待たせいたしました! お約束の異形の役者体の登場です。
それは、四谷シモンであります。
状況劇場に入って驚いたのは麿さんだけではない。
稽古場の中に一見男のようだがそうでないような、独特の雰囲気を放っている人物がいた。それが、四谷シモンである。
他の劇団員のどこか荒ぶれた感じとは、全く異質な空気を漂わせていた。
喋ると「アタシはさあ・・・」と女言葉風で、めちゃ早口である。
女のような言葉使いだからといってもナヨッとしてはいない。
どちらかといえば、チャキチャキしてる。
そして色白で、ガッシリしているが痩せていて背が高い。180センチは超えていたと思う。
また身に付けてる物が違った。他のメンバーと断然違う。
今迄に見た事もない雰囲気の服を、いつも着ていた。
男用の服なのだが、そのデザインや色合いは、どう見ても日本の物ではないのだ。
稽古の時はスッピンだから気がつかなかったのだが、本番で化粧を施し、衣装を着けた姿を間近にして、おえ、じゃない、俺はビックラしちゃった(◎_◎)!!! これがすんごいの何のって。
大きな自動フランス人形が現れたかと思った。
嘘だと思ってるな?
オーバーな表現だと思ってるな?
じゃ、証拠をお見せしよう! ジャーン。
どうだっ!!!って、俺が威張ることはないか。
いまや日本を代表する人形作家・四谷シモンであるが、俺が状況劇場に入った頃は、他に比べようもないというか、当時の先進的な人たちに圧倒的に支持された女形としての存在だったのだ。
今風の馬鹿者、じゃない若者に言わせれば、
「こんなのあり得ねえョ、こりゃヤッベエって!」
と叫びっ放しになること間違いなしのブッ飛びもブッ飛びの妖艶女形であったのだ。
それもただの妖艶ではない、舞台で猛毒を発散しまくりなのだ!
現在の四谷シモンの活動を知らない方たちのために、ここで一旦こんなものを見てもらおう。
で、また状況劇場の頃の話に戻ります。
毒花・四谷シモンは、この超美形の上にさらに歌が巧いときた。
その腕前は状況劇場随一であったと思う。
唐さんの戯曲は、ミュージカルかと思うくらい歌が多い。
だから、シモンの歌は紅テント劇場の舞台の魅力のひとつであったわけだ。
この歌の巧さの秘密は、4、5年前に出版されたシモンの半生記のような本で、俺は初めて知ったのだった。
またもや、長くなってしまいました。では、そろそろお暇いたします。
皆さん、またお会いしましょう。
風を感じる屋外は心地良いけれど、屋内で何かに熱中していると、よく晴れた日は初夏とも思えるほど室温は上がり、おでこやら鼻の頭やらが汗ばんできます。
まだ五月だというのに、どこか薄気味悪いこの暑さ。
地球温暖化のことが頭をよぎります。
先頃、映画「不都合な真実」のキャンペーンで来日していたアル・ゴア氏の角張った顔が浮かんできます。
10年前に行ったキリバス共和国のクリスマス島の夢のような風景が、くっきりと思い出されます。あの島の標高は最も高い場所で8メートルしかない。
この不思議な島を訪れた目的は、勿論とびっきりのフライフィッシングを楽しむため。
狙いは、フライフィッシャー憧れのボーンフィッシュ。
俺が行った時点で、すでにキリバス共和国他の島々から移住し始めていて、島の人口は10年前の3倍になったとガイドは言っていた。現在、クリスマス島周辺の海面上昇は、10年前よりも進んでいることは間違いないところだろう。
こままいけば、数十年後には島ごと国土は消滅する運命にある。
ここだけではない。奇跡としか言いようのない美しい大自然、動植物が地球規模で失われつつあるのだ。
自分の足元で出来ることからやっていく。まずは、そこから始めるより他に道はないんだろうな。
エコロジーなんて無縁の昔は、のびやかで良かったなあ。
日本が今ほど豊かではなく、俺がまだ山梨に住んでいた頃、のんびりとして、逆にある意味では今より贅沢だったような気がする。
貧しかったし、不便だったり不衛生だったりしたかもしれないけれど、そんなこと渦中の自分は少しも感じてはいなかった。充分に楽しんで毎日暮らしていた。いや、日々の楽しみの質が、今とは違っていたと思う。
火、風、水、土を、毎日の生活の中で直接肌に感じていた。
近頃、無性に山梨での日々が懐かしくなることがある。
俺の父親は歯科医であった。生まれは山梨県・日川村。
元は東京で開業していたのだが、空襲で焼け出され、自分の郷里ではなく、疎開予定先の同じ山梨の都留市にあった伯母(母の姉)の大きな家に兄達二人を連れて転がり込み、二階を待合い室と診察室にして開業していた。
上の二人は、それぞれ中国の北京、塘沽(タンクウ)で生まれている。俺と弟は、母の郷里・都留市で生まれた。
父は一日中家にいて、二階で仕事をしていた。
当時は技工士という職業はなく、歯医者が自ら患者の歯も作っていた。父の作った歯は壊れず長持ちがするという評判だったというから、技術は高かったのだろう。
二人の兄たちとは年が離れていたので、二才下の弟とよく遊び、喧嘩もしたが、その度に父が仕事を中断して階段をドンッドンッとどでかい音をたてて降りて来る。この音が聞こえた途端、二人は取っ組み合いをやめてそしらぬ顔を決め込むのだが、父はズカズカとやって来ていきなり二人の襟首を掴み、
「喧嘩は両成敗っ!」
の言葉と同時に、ガツンと俺たち二人の頭を鉢合わせ。
こいつをやられると、いつも頭の周りで星がクルクル回ったものである。
確かに今時のお父さんと比べたら、横暴な面はあったかもしれない。でも、家父長としての威厳に満ちていて、ある面格好良かった。
典型的な亭主関白主義の家庭のあの懐かしの「お膳返し」は、どうやって生まれ、一体いつ頃から日本中を席巻したのだろうか?ってな疑問は前回だったか、ブログで提示させてもらったが、一切反応はない。
ま、自分で調べろってことだろうが、どこでどう調べれば良いのか見当もつかない。う~ん、だがやはり気になる・・・。
俺が生まれた家で、父の家父長としての権威を最もよく現わしていたのが、元旦のお屠蘇を頂く儀式であった。
このセレモニーに使われる盃は、子供の目にもその大きさといい、鈍く光る質感と盃の中に見える紋様といい、その盃の醸し出していた上品さはわかった。
ひとつには菊の御紋が、もうひとつには桐の花の柄が彫金されていた。
事件って何だ?
こんな立派な銀杯が、どうして我が家にあったのか?
そこで、現在銀杯を受け継いでいる長兄に尋ねたら、こんなメールが返ってきました。
「昔我が家には銀杯が二つありました。
一つは曽祖父が賜った銀杯で、もう一つは祖父根津芳造さんが
賜ったものです。芳造さんが賜った銀杯は喜久恵祖母が勤叔父さん
家に譲った筈です。
この銀杯は曽祖父根津嘉市郎が賜ったものですが、
「事件」というのは犯罪に関わるものではなく、
当時笛吹川が氾濫し、日川村一帯も大被害に見舞われた際、
獅子奮迅の働きで職務を全うしたのでしょう。
この為、表彰とこの銀杯を賜ったという訳です。
今でも天皇陛下が下賜される銀杯がありますが、かなり小ぶりなものです。」
そういう由来であったのか!
俺も初めて知った、という間抜けな話ですが、確かに根津家にあった銀杯は径が20センチぐらい、深さは3センチぐらいの銀製で、上の写真のように中に径10数センチの大きな菊の御紋章が彫金されていた。
銀杯は子供の手にはズシリと重く、その大きさと渋い銀の輝きは父の家父長としての威厳そのものであったような気がする。
清々しい空気の一月一日の朝。
一張羅の和服を着て、上座にデンと座した父を中心に、この銀杯を押し頂いての厳かな儀式で一年が始まるという、いま思えば、贅沢でゆったりとした元旦らしい元旦であった。
いやあ、まくらが主題みたいになってしまいました。
それでは、お待たせいたしました! お約束の異形の役者体の登場です。
それは、四谷シモンであります。
状況劇場に入って驚いたのは麿さんだけではない。
稽古場の中に一見男のようだがそうでないような、独特の雰囲気を放っている人物がいた。それが、四谷シモンである。
他の劇団員のどこか荒ぶれた感じとは、全く異質な空気を漂わせていた。
喋ると「アタシはさあ・・・」と女言葉風で、めちゃ早口である。
女のような言葉使いだからといってもナヨッとしてはいない。
どちらかといえば、チャキチャキしてる。
そして色白で、ガッシリしているが痩せていて背が高い。180センチは超えていたと思う。
また身に付けてる物が違った。他のメンバーと断然違う。
今迄に見た事もない雰囲気の服を、いつも着ていた。
男用の服なのだが、そのデザインや色合いは、どう見ても日本の物ではないのだ。
稽古の時はスッピンだから気がつかなかったのだが、本番で化粧を施し、衣装を着けた姿を間近にして、おえ、じゃない、俺はビックラしちゃった(◎_◎)!!! これがすんごいの何のって。
大きな自動フランス人形が現れたかと思った。
嘘だと思ってるな?
オーバーな表現だと思ってるな?
じゃ、証拠をお見せしよう! ジャーン。
どうだっ!!!って、俺が威張ることはないか。
いまや日本を代表する人形作家・四谷シモンであるが、俺が状況劇場に入った頃は、他に比べようもないというか、当時の先進的な人たちに圧倒的に支持された女形としての存在だったのだ。
今風の馬鹿者、じゃない若者に言わせれば、
「こんなのあり得ねえョ、こりゃヤッベエって!」
と叫びっ放しになること間違いなしのブッ飛びもブッ飛びの妖艶女形であったのだ。
それもただの妖艶ではない、舞台で猛毒を発散しまくりなのだ!
現在の四谷シモンの活動を知らない方たちのために、ここで一旦こんなものを見てもらおう。
で、また状況劇場の頃の話に戻ります。
毒花・四谷シモンは、この超美形の上にさらに歌が巧いときた。
その腕前は状況劇場随一であったと思う。
唐さんの戯曲は、ミュージカルかと思うくらい歌が多い。
だから、シモンの歌は紅テント劇場の舞台の魅力のひとつであったわけだ。
この歌の巧さの秘密は、4、5年前に出版されたシモンの半生記のような本で、俺は初めて知ったのだった。
またもや、長くなってしまいました。では、そろそろお暇いたします。
皆さん、またお会いしましょう。
ブログ一周年2007年05月07日
皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
そよ風に吹かれていつまでも身をさらしていたくなる、俺が一年を通して一番好きな、そんな爽やかな季節になってきました。
暖房も冷房も必要ないし、日によっては、ここはハワイかと思われるようにサラっとした空気とクッキリした陽射しで、実に清々しい天気に恵まれることもありますよね。
今、これを打ってたら、すぐ目の前の陽溜まりに、近所の飼い猫が気持ち良さ気に思いっきり昼寝を決め込んでいるのに気づいた!
カシャッ。カシャッ、カシャッカシャッ!
この陽気の良さに、ぬくぬくとチョイだる目で気持ち良さそうである。こんな愛らしい猫の姿を目にすると、猫派の俺としては、また飼いたくなってしまうなあ。
愛らしいといえば、この間、息子がカイワレ大根を種から育て、その観察レポートを作成する宿題をやっていた。
コーヒーテーブルの上で、ガラスの器へ収められた「カイワレ君」の種が気になって時々眺めていたら、陽差しに誘われて芽を出したかと思ったら、日ごとスクスクと伸びるわ、伸びる。
小粒な種から芽を吹いて、短い期間で育っていくのを見ていると、何とも愛らしく、いじらしいものである。
どんなに小さくても命なんだやっぱり、と妙に感じっ入ってしまう。
妻が用意した器の形が良かったせいもあると思うが、あんまり可愛いので写欲に駆られ、カイワレ大根のクローズアップを初めて撮った。
「レポート書き終わったから捨てていいよ。でも、一つだけとっといてぇ。どれだけ伸びるか見たいんだ」と、息子。
「捨てるのはよくないな。せっかく自分で育てたんだから食べてあげなくちゃ」
「わかった」
で、一つはまんまにして、写真に撮った方の「カイワレ君」はその日の夕食のサラダに強制参加してもらい、家族全員の胃袋に収まったのだった。
採れたて(?)で鮮度抜群のカイワレ大根の美味かったこと(^0^)
息子のレポート宿題といえば、こんなことがあった。
まだ3年生の時である。ある日いきなり、「パパ、ちょっとパソコン借して」ときた。
「何すんの?」
「宿題」
「ふ~ん、パソコンで?」
と、使えるのかな?と半信半疑でノートパソコンを渡した。
「学校にあるウィンドウズと違うから、やりにくいなあ」
などと、一丁前の口をききながら何やらサッサかやっている。
気になって覗いてみて、俺はビックラしちまった(◎_◎)
な、な、なんと「Power Point」を使って「僕のおすすめ」というレポートを作成してるではないか!!!
父親である俺は、Power Pointなんてソフトは、送られてきたデータを開く時しか見た事がない。一寸使ってみようかと試してみたことはあるが、間もなく挫折した。
「出来たあ!」
「・・・ふ~ん、どれどれ(早え~、もう出来たのかよ!?)」
と、平静を装い覗き込む俺。
すると、そのレポートはサウンド付きで、さらに中の画像の一部が動くようになっているのである!? 二度目のビックラ(◎_◎)
親としては嬉しくもあり、チョッピリ悔しくもあり、9才でここまで出来るってことは、将来とんでもないところまで進むんだろうという予想に恐ろしささえ覚えたものである。
今、自分の子供の頃には考えられない事態となっている。
俺の子供時代には、大人は何でも知っていて、あらゆる面で超えることのできない大きな存在であり、畏敬の思いで見上げる存在であった。
ところが、今やこれだけ多くの分野でデジタル化が進んで来ると、この世に生まれた瞬間からデジタル物に囲まれ、何の疑問もなくデジタルで遊び、扱い慣れて育つと、俺の世代(いや、世代と関係ないようにも思えるが)は、子供とデジタル物では一緒に遊べない。
俺には、子供が好きなゲームは何がどうなってるのかチンプンカンプンだし、たとえいじる事はできても、勝負は圧倒的に子供の方が優位だからだ。
子供は正直で残酷だから、「大人なのに、何でこんな簡単なこともできないの?」と感じているに違いない。
デジタルの仮想世界は、大人も子供も、強い者も弱い者もみんなを平等にしてくれる反面、危険な勘違いと思い込みを生む可能性を孕んでいると思う。
最近日本でも流行り始めてるWeb上での仮想社会「セカンドライフ」も、ちょっと危ない匂いがすると感じてるのは、俺だけだろうか?
仮想社会に長時間のめり込んでいると、知らぬ間に意識は、見えない「毒」に侵されていくのではないだろうか。
デジタル仮想社会に限らず、効率と利便性を主に追求する世界に浸ってる時間が長くなれば、その分だけ、本来の生の人間の自然な流れの意識に、地球本来のあるがままの大自然に触れる時間を意識的に増やさないと、ヒトは知らないうちにヒトとしては歪んでいくと思っている。大自然の前にヒトは無力であるという謙虚さを知っておく必要がある。
かつては、子供の遊びの殆どは、親がまだ小さかった頃体験したものばかりであって、大人はあらゆる場面で先輩であり、子供に教え、指導することができた。それが、デジタル化が進む中で、かつての大人と子供の関係が逆転している場面が増えている気がする。
大げさに言うと、子供が大人の存在をなめてかかることに繋がっていく要因となっているのではないだろうか。
デジタル物に滑り込みギリギリスな俺は、「Photoshop」「Skype」などをマスターすることで、デジタルの場面でも息子より優位を保とうと意識しているこの頃である。
さて、気がつけばブログを始めて、はや1年になる。
この話をいただいた時、筆無精で遅筆な自分にブログなんぞ出来るわけがないと思い込んでいた俺は、妻の友人丹生谷さんに言われた。
丸一年前のブログに、
「書けない時は写真を多用してもいいし、決まりは何も無し、構えずに気軽に始めてみたら」と勧められた。これで少し気が楽になり、ひょっとして俺にも出来るかもなどと思ってしまい、「それに、まずは始めてみて重荷になったら、最悪やめるという選択肢もありますから」という一言で、さらに気が楽チンになってしまい、つい「やってみましょう」
とある。
丹生谷さんに背中を押されていなければ、ブログはやっていなかったに違いない。
つまりこんな沢山の出会いを与えられるブログの幸運には巡り会っていないということだ。
俺の人生は、「ひょんなこと」がきっかけで大きく転がってきたとも書いたけれど、やはり今回も案の定の結果であった。進歩がないというか、これは生涯変りそうもないようだ。
でも、皆さんも案外そうではありませんか?
人生、あまり決め込まずにいろんな「ひょんなこと」に首を突っ込んだ方が楽しい方へ転がっていくようです。
今思うと、ホントに丹生谷さんには大感謝である。そして、テニス365さんにもm(_ _)m
さて、その丹生谷真美さんが、最近新刊を出しました。
タイトルは縦に「母から学んだきちんときれいな暮らしかた」とある。日本語の美しさは縦書きにある、と拘ってらっしゃる様子がわかる。
しみじみとしたタイトルです。年配の方から若い方まで、特に女性は是非側に置いておくことをお薦めします。
「異形の役者体」の7番目に展開するはずだったのに、ズンズン別の方向へ来てしまいました。
だから、言ったでしょう、あくまで予定だって・・・。
と、自己弁護。
それでは、またお会いしましょう。再見!!!
そよ風に吹かれていつまでも身をさらしていたくなる、俺が一年を通して一番好きな、そんな爽やかな季節になってきました。
暖房も冷房も必要ないし、日によっては、ここはハワイかと思われるようにサラっとした空気とクッキリした陽射しで、実に清々しい天気に恵まれることもありますよね。
今、これを打ってたら、すぐ目の前の陽溜まりに、近所の飼い猫が気持ち良さ気に思いっきり昼寝を決め込んでいるのに気づいた!
カシャッ。カシャッ、カシャッカシャッ!
この陽気の良さに、ぬくぬくとチョイだる目で気持ち良さそうである。こんな愛らしい猫の姿を目にすると、猫派の俺としては、また飼いたくなってしまうなあ。
愛らしいといえば、この間、息子がカイワレ大根を種から育て、その観察レポートを作成する宿題をやっていた。
コーヒーテーブルの上で、ガラスの器へ収められた「カイワレ君」の種が気になって時々眺めていたら、陽差しに誘われて芽を出したかと思ったら、日ごとスクスクと伸びるわ、伸びる。
小粒な種から芽を吹いて、短い期間で育っていくのを見ていると、何とも愛らしく、いじらしいものである。
どんなに小さくても命なんだやっぱり、と妙に感じっ入ってしまう。
妻が用意した器の形が良かったせいもあると思うが、あんまり可愛いので写欲に駆られ、カイワレ大根のクローズアップを初めて撮った。
「レポート書き終わったから捨てていいよ。でも、一つだけとっといてぇ。どれだけ伸びるか見たいんだ」と、息子。
「捨てるのはよくないな。せっかく自分で育てたんだから食べてあげなくちゃ」
「わかった」
で、一つはまんまにして、写真に撮った方の「カイワレ君」はその日の夕食のサラダに強制参加してもらい、家族全員の胃袋に収まったのだった。
採れたて(?)で鮮度抜群のカイワレ大根の美味かったこと(^0^)
息子のレポート宿題といえば、こんなことがあった。
まだ3年生の時である。ある日いきなり、「パパ、ちょっとパソコン借して」ときた。
「何すんの?」
「宿題」
「ふ~ん、パソコンで?」
と、使えるのかな?と半信半疑でノートパソコンを渡した。
「学校にあるウィンドウズと違うから、やりにくいなあ」
などと、一丁前の口をききながら何やらサッサかやっている。
気になって覗いてみて、俺はビックラしちまった(◎_◎)
な、な、なんと「Power Point」を使って「僕のおすすめ」というレポートを作成してるではないか!!!
父親である俺は、Power Pointなんてソフトは、送られてきたデータを開く時しか見た事がない。一寸使ってみようかと試してみたことはあるが、間もなく挫折した。
「出来たあ!」
「・・・ふ~ん、どれどれ(早え~、もう出来たのかよ!?)」
と、平静を装い覗き込む俺。
すると、そのレポートはサウンド付きで、さらに中の画像の一部が動くようになっているのである!? 二度目のビックラ(◎_◎)
親としては嬉しくもあり、チョッピリ悔しくもあり、9才でここまで出来るってことは、将来とんでもないところまで進むんだろうという予想に恐ろしささえ覚えたものである。
今、自分の子供の頃には考えられない事態となっている。
俺の子供時代には、大人は何でも知っていて、あらゆる面で超えることのできない大きな存在であり、畏敬の思いで見上げる存在であった。
ところが、今やこれだけ多くの分野でデジタル化が進んで来ると、この世に生まれた瞬間からデジタル物に囲まれ、何の疑問もなくデジタルで遊び、扱い慣れて育つと、俺の世代(いや、世代と関係ないようにも思えるが)は、子供とデジタル物では一緒に遊べない。
俺には、子供が好きなゲームは何がどうなってるのかチンプンカンプンだし、たとえいじる事はできても、勝負は圧倒的に子供の方が優位だからだ。
子供は正直で残酷だから、「大人なのに、何でこんな簡単なこともできないの?」と感じているに違いない。
デジタルの仮想世界は、大人も子供も、強い者も弱い者もみんなを平等にしてくれる反面、危険な勘違いと思い込みを生む可能性を孕んでいると思う。
最近日本でも流行り始めてるWeb上での仮想社会「セカンドライフ」も、ちょっと危ない匂いがすると感じてるのは、俺だけだろうか?
仮想社会に長時間のめり込んでいると、知らぬ間に意識は、見えない「毒」に侵されていくのではないだろうか。
デジタル仮想社会に限らず、効率と利便性を主に追求する世界に浸ってる時間が長くなれば、その分だけ、本来の生の人間の自然な流れの意識に、地球本来のあるがままの大自然に触れる時間を意識的に増やさないと、ヒトは知らないうちにヒトとしては歪んでいくと思っている。大自然の前にヒトは無力であるという謙虚さを知っておく必要がある。
かつては、子供の遊びの殆どは、親がまだ小さかった頃体験したものばかりであって、大人はあらゆる場面で先輩であり、子供に教え、指導することができた。それが、デジタル化が進む中で、かつての大人と子供の関係が逆転している場面が増えている気がする。
大げさに言うと、子供が大人の存在をなめてかかることに繋がっていく要因となっているのではないだろうか。
デジタル物に滑り込みギリギリスな俺は、「Photoshop」「Skype」などをマスターすることで、デジタルの場面でも息子より優位を保とうと意識しているこの頃である。
さて、気がつけばブログを始めて、はや1年になる。
この話をいただいた時、筆無精で遅筆な自分にブログなんぞ出来るわけがないと思い込んでいた俺は、妻の友人丹生谷さんに言われた。
丸一年前のブログに、
「書けない時は写真を多用してもいいし、決まりは何も無し、構えずに気軽に始めてみたら」と勧められた。これで少し気が楽になり、ひょっとして俺にも出来るかもなどと思ってしまい、「それに、まずは始めてみて重荷になったら、最悪やめるという選択肢もありますから」という一言で、さらに気が楽チンになってしまい、つい「やってみましょう」
とある。
丹生谷さんに背中を押されていなければ、ブログはやっていなかったに違いない。
つまりこんな沢山の出会いを与えられるブログの幸運には巡り会っていないということだ。
俺の人生は、「ひょんなこと」がきっかけで大きく転がってきたとも書いたけれど、やはり今回も案の定の結果であった。進歩がないというか、これは生涯変りそうもないようだ。
でも、皆さんも案外そうではありませんか?
人生、あまり決め込まずにいろんな「ひょんなこと」に首を突っ込んだ方が楽しい方へ転がっていくようです。
今思うと、ホントに丹生谷さんには大感謝である。そして、テニス365さんにもm(_ _)m
さて、その丹生谷真美さんが、最近新刊を出しました。
タイトルは縦に「母から学んだきちんときれいな暮らしかた」とある。日本語の美しさは縦書きにある、と拘ってらっしゃる様子がわかる。
しみじみとしたタイトルです。年配の方から若い方まで、特に女性は是非側に置いておくことをお薦めします。
「異形の役者体」の7番目に展開するはずだったのに、ズンズン別の方向へ来てしまいました。
だから、言ったでしょう、あくまで予定だって・・・。
と、自己弁護。
それでは、またお会いしましょう。再見!!!