異形の役者体72007年05月14日
皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。
風を感じる屋外は心地良いけれど、屋内で何かに熱中していると、よく晴れた日は初夏とも思えるほど室温は上がり、おでこやら鼻の頭やらが汗ばんできます。
まだ五月だというのに、どこか薄気味悪いこの暑さ。
地球温暖化のことが頭をよぎります。
先頃、映画「不都合な真実」のキャンペーンで来日していたアル・ゴア氏の角張った顔が浮かんできます。
10年前に行ったキリバス共和国のクリスマス島の夢のような風景が、くっきりと思い出されます。あの島の標高は最も高い場所で8メートルしかない。
この不思議な島を訪れた目的は、勿論とびっきりのフライフィッシングを楽しむため。
狙いは、フライフィッシャー憧れのボーンフィッシュ。
俺が行った時点で、すでにキリバス共和国他の島々から移住し始めていて、島の人口は10年前の3倍になったとガイドは言っていた。現在、クリスマス島周辺の海面上昇は、10年前よりも進んでいることは間違いないところだろう。
こままいけば、数十年後には島ごと国土は消滅する運命にある。
ここだけではない。奇跡としか言いようのない美しい大自然、動植物が地球規模で失われつつあるのだ。
自分の足元で出来ることからやっていく。まずは、そこから始めるより他に道はないんだろうな。
エコロジーなんて無縁の昔は、のびやかで良かったなあ。
日本が今ほど豊かではなく、俺がまだ山梨に住んでいた頃、のんびりとして、逆にある意味では今より贅沢だったような気がする。
貧しかったし、不便だったり不衛生だったりしたかもしれないけれど、そんなこと渦中の自分は少しも感じてはいなかった。充分に楽しんで毎日暮らしていた。いや、日々の楽しみの質が、今とは違っていたと思う。
火、風、水、土を、毎日の生活の中で直接肌に感じていた。
近頃、無性に山梨での日々が懐かしくなることがある。
俺の父親は歯科医であった。生まれは山梨県・日川村。
元は東京で開業していたのだが、空襲で焼け出され、自分の郷里ではなく、疎開予定先の同じ山梨の都留市にあった伯母(母の姉)の大きな家に兄達二人を連れて転がり込み、二階を待合い室と診察室にして開業していた。
上の二人は、それぞれ中国の北京、塘沽(タンクウ)で生まれている。俺と弟は、母の郷里・都留市で生まれた。
父は一日中家にいて、二階で仕事をしていた。
当時は技工士という職業はなく、歯医者が自ら患者の歯も作っていた。父の作った歯は壊れず長持ちがするという評判だったというから、技術は高かったのだろう。
二人の兄たちとは年が離れていたので、二才下の弟とよく遊び、喧嘩もしたが、その度に父が仕事を中断して階段をドンッドンッとどでかい音をたてて降りて来る。この音が聞こえた途端、二人は取っ組み合いをやめてそしらぬ顔を決め込むのだが、父はズカズカとやって来ていきなり二人の襟首を掴み、
「喧嘩は両成敗っ!」
の言葉と同時に、ガツンと俺たち二人の頭を鉢合わせ。
こいつをやられると、いつも頭の周りで星がクルクル回ったものである。
確かに今時のお父さんと比べたら、横暴な面はあったかもしれない。でも、家父長としての威厳に満ちていて、ある面格好良かった。
典型的な亭主関白主義の家庭のあの懐かしの「お膳返し」は、どうやって生まれ、一体いつ頃から日本中を席巻したのだろうか?ってな疑問は前回だったか、ブログで提示させてもらったが、一切反応はない。
ま、自分で調べろってことだろうが、どこでどう調べれば良いのか見当もつかない。う~ん、だがやはり気になる・・・。
俺が生まれた家で、父の家父長としての権威を最もよく現わしていたのが、元旦のお屠蘇を頂く儀式であった。
このセレモニーに使われる盃は、子供の目にもその大きさといい、鈍く光る質感と盃の中に見える紋様といい、その盃の醸し出していた上品さはわかった。
ひとつには菊の御紋が、もうひとつには桐の花の柄が彫金されていた。
事件って何だ?
こんな立派な銀杯が、どうして我が家にあったのか?
そこで、現在銀杯を受け継いでいる長兄に尋ねたら、こんなメールが返ってきました。
「昔我が家には銀杯が二つありました。
一つは曽祖父が賜った銀杯で、もう一つは祖父根津芳造さんが
賜ったものです。芳造さんが賜った銀杯は喜久恵祖母が勤叔父さん
家に譲った筈です。
この銀杯は曽祖父根津嘉市郎が賜ったものですが、
「事件」というのは犯罪に関わるものではなく、
当時笛吹川が氾濫し、日川村一帯も大被害に見舞われた際、
獅子奮迅の働きで職務を全うしたのでしょう。
この為、表彰とこの銀杯を賜ったという訳です。
今でも天皇陛下が下賜される銀杯がありますが、かなり小ぶりなものです。」
そういう由来であったのか!
俺も初めて知った、という間抜けな話ですが、確かに根津家にあった銀杯は径が20センチぐらい、深さは3センチぐらいの銀製で、上の写真のように中に径10数センチの大きな菊の御紋章が彫金されていた。
銀杯は子供の手にはズシリと重く、その大きさと渋い銀の輝きは父の家父長としての威厳そのものであったような気がする。
清々しい空気の一月一日の朝。
一張羅の和服を着て、上座にデンと座した父を中心に、この銀杯を押し頂いての厳かな儀式で一年が始まるという、いま思えば、贅沢でゆったりとした元旦らしい元旦であった。
いやあ、まくらが主題みたいになってしまいました。
それでは、お待たせいたしました! お約束の異形の役者体の登場です。
それは、四谷シモンであります。
状況劇場に入って驚いたのは麿さんだけではない。
稽古場の中に一見男のようだがそうでないような、独特の雰囲気を放っている人物がいた。それが、四谷シモンである。
他の劇団員のどこか荒ぶれた感じとは、全く異質な空気を漂わせていた。
喋ると「アタシはさあ・・・」と女言葉風で、めちゃ早口である。
女のような言葉使いだからといってもナヨッとしてはいない。
どちらかといえば、チャキチャキしてる。
そして色白で、ガッシリしているが痩せていて背が高い。180センチは超えていたと思う。
また身に付けてる物が違った。他のメンバーと断然違う。
今迄に見た事もない雰囲気の服を、いつも着ていた。
男用の服なのだが、そのデザインや色合いは、どう見ても日本の物ではないのだ。
稽古の時はスッピンだから気がつかなかったのだが、本番で化粧を施し、衣装を着けた姿を間近にして、おえ、じゃない、俺はビックラしちゃった(◎_◎)!!! これがすんごいの何のって。
大きな自動フランス人形が現れたかと思った。
嘘だと思ってるな?
オーバーな表現だと思ってるな?
じゃ、証拠をお見せしよう! ジャーン。
どうだっ!!!って、俺が威張ることはないか。
いまや日本を代表する人形作家・四谷シモンであるが、俺が状況劇場に入った頃は、他に比べようもないというか、当時の先進的な人たちに圧倒的に支持された女形としての存在だったのだ。
今風の馬鹿者、じゃない若者に言わせれば、
「こんなのあり得ねえョ、こりゃヤッベエって!」
と叫びっ放しになること間違いなしのブッ飛びもブッ飛びの妖艶女形であったのだ。
それもただの妖艶ではない、舞台で猛毒を発散しまくりなのだ!
現在の四谷シモンの活動を知らない方たちのために、ここで一旦こんなものを見てもらおう。
で、また状況劇場の頃の話に戻ります。
毒花・四谷シモンは、この超美形の上にさらに歌が巧いときた。
その腕前は状況劇場随一であったと思う。
唐さんの戯曲は、ミュージカルかと思うくらい歌が多い。
だから、シモンの歌は紅テント劇場の舞台の魅力のひとつであったわけだ。
この歌の巧さの秘密は、4、5年前に出版されたシモンの半生記のような本で、俺は初めて知ったのだった。
またもや、長くなってしまいました。では、そろそろお暇いたします。
皆さん、またお会いしましょう。
風を感じる屋外は心地良いけれど、屋内で何かに熱中していると、よく晴れた日は初夏とも思えるほど室温は上がり、おでこやら鼻の頭やらが汗ばんできます。
まだ五月だというのに、どこか薄気味悪いこの暑さ。
地球温暖化のことが頭をよぎります。
先頃、映画「不都合な真実」のキャンペーンで来日していたアル・ゴア氏の角張った顔が浮かんできます。
10年前に行ったキリバス共和国のクリスマス島の夢のような風景が、くっきりと思い出されます。あの島の標高は最も高い場所で8メートルしかない。
この不思議な島を訪れた目的は、勿論とびっきりのフライフィッシングを楽しむため。
狙いは、フライフィッシャー憧れのボーンフィッシュ。
俺が行った時点で、すでにキリバス共和国他の島々から移住し始めていて、島の人口は10年前の3倍になったとガイドは言っていた。現在、クリスマス島周辺の海面上昇は、10年前よりも進んでいることは間違いないところだろう。
こままいけば、数十年後には島ごと国土は消滅する運命にある。
ここだけではない。奇跡としか言いようのない美しい大自然、動植物が地球規模で失われつつあるのだ。
自分の足元で出来ることからやっていく。まずは、そこから始めるより他に道はないんだろうな。
エコロジーなんて無縁の昔は、のびやかで良かったなあ。
日本が今ほど豊かではなく、俺がまだ山梨に住んでいた頃、のんびりとして、逆にある意味では今より贅沢だったような気がする。
貧しかったし、不便だったり不衛生だったりしたかもしれないけれど、そんなこと渦中の自分は少しも感じてはいなかった。充分に楽しんで毎日暮らしていた。いや、日々の楽しみの質が、今とは違っていたと思う。
火、風、水、土を、毎日の生活の中で直接肌に感じていた。
近頃、無性に山梨での日々が懐かしくなることがある。
俺の父親は歯科医であった。生まれは山梨県・日川村。
元は東京で開業していたのだが、空襲で焼け出され、自分の郷里ではなく、疎開予定先の同じ山梨の都留市にあった伯母(母の姉)の大きな家に兄達二人を連れて転がり込み、二階を待合い室と診察室にして開業していた。
上の二人は、それぞれ中国の北京、塘沽(タンクウ)で生まれている。俺と弟は、母の郷里・都留市で生まれた。
父は一日中家にいて、二階で仕事をしていた。
当時は技工士という職業はなく、歯医者が自ら患者の歯も作っていた。父の作った歯は壊れず長持ちがするという評判だったというから、技術は高かったのだろう。
二人の兄たちとは年が離れていたので、二才下の弟とよく遊び、喧嘩もしたが、その度に父が仕事を中断して階段をドンッドンッとどでかい音をたてて降りて来る。この音が聞こえた途端、二人は取っ組み合いをやめてそしらぬ顔を決め込むのだが、父はズカズカとやって来ていきなり二人の襟首を掴み、
「喧嘩は両成敗っ!」
の言葉と同時に、ガツンと俺たち二人の頭を鉢合わせ。
こいつをやられると、いつも頭の周りで星がクルクル回ったものである。
確かに今時のお父さんと比べたら、横暴な面はあったかもしれない。でも、家父長としての威厳に満ちていて、ある面格好良かった。
典型的な亭主関白主義の家庭のあの懐かしの「お膳返し」は、どうやって生まれ、一体いつ頃から日本中を席巻したのだろうか?ってな疑問は前回だったか、ブログで提示させてもらったが、一切反応はない。
ま、自分で調べろってことだろうが、どこでどう調べれば良いのか見当もつかない。う~ん、だがやはり気になる・・・。
俺が生まれた家で、父の家父長としての権威を最もよく現わしていたのが、元旦のお屠蘇を頂く儀式であった。
このセレモニーに使われる盃は、子供の目にもその大きさといい、鈍く光る質感と盃の中に見える紋様といい、その盃の醸し出していた上品さはわかった。
ひとつには菊の御紋が、もうひとつには桐の花の柄が彫金されていた。
事件って何だ?
こんな立派な銀杯が、どうして我が家にあったのか?
そこで、現在銀杯を受け継いでいる長兄に尋ねたら、こんなメールが返ってきました。
「昔我が家には銀杯が二つありました。
一つは曽祖父が賜った銀杯で、もう一つは祖父根津芳造さんが
賜ったものです。芳造さんが賜った銀杯は喜久恵祖母が勤叔父さん
家に譲った筈です。
この銀杯は曽祖父根津嘉市郎が賜ったものですが、
「事件」というのは犯罪に関わるものではなく、
当時笛吹川が氾濫し、日川村一帯も大被害に見舞われた際、
獅子奮迅の働きで職務を全うしたのでしょう。
この為、表彰とこの銀杯を賜ったという訳です。
今でも天皇陛下が下賜される銀杯がありますが、かなり小ぶりなものです。」
そういう由来であったのか!
俺も初めて知った、という間抜けな話ですが、確かに根津家にあった銀杯は径が20センチぐらい、深さは3センチぐらいの銀製で、上の写真のように中に径10数センチの大きな菊の御紋章が彫金されていた。
銀杯は子供の手にはズシリと重く、その大きさと渋い銀の輝きは父の家父長としての威厳そのものであったような気がする。
清々しい空気の一月一日の朝。
一張羅の和服を着て、上座にデンと座した父を中心に、この銀杯を押し頂いての厳かな儀式で一年が始まるという、いま思えば、贅沢でゆったりとした元旦らしい元旦であった。
いやあ、まくらが主題みたいになってしまいました。
それでは、お待たせいたしました! お約束の異形の役者体の登場です。
それは、四谷シモンであります。
状況劇場に入って驚いたのは麿さんだけではない。
稽古場の中に一見男のようだがそうでないような、独特の雰囲気を放っている人物がいた。それが、四谷シモンである。
他の劇団員のどこか荒ぶれた感じとは、全く異質な空気を漂わせていた。
喋ると「アタシはさあ・・・」と女言葉風で、めちゃ早口である。
女のような言葉使いだからといってもナヨッとしてはいない。
どちらかといえば、チャキチャキしてる。
そして色白で、ガッシリしているが痩せていて背が高い。180センチは超えていたと思う。
また身に付けてる物が違った。他のメンバーと断然違う。
今迄に見た事もない雰囲気の服を、いつも着ていた。
男用の服なのだが、そのデザインや色合いは、どう見ても日本の物ではないのだ。
稽古の時はスッピンだから気がつかなかったのだが、本番で化粧を施し、衣装を着けた姿を間近にして、おえ、じゃない、俺はビックラしちゃった(◎_◎)!!! これがすんごいの何のって。
大きな自動フランス人形が現れたかと思った。
嘘だと思ってるな?
オーバーな表現だと思ってるな?
じゃ、証拠をお見せしよう! ジャーン。
どうだっ!!!って、俺が威張ることはないか。
いまや日本を代表する人形作家・四谷シモンであるが、俺が状況劇場に入った頃は、他に比べようもないというか、当時の先進的な人たちに圧倒的に支持された女形としての存在だったのだ。
今風の馬鹿者、じゃない若者に言わせれば、
「こんなのあり得ねえョ、こりゃヤッベエって!」
と叫びっ放しになること間違いなしのブッ飛びもブッ飛びの妖艶女形であったのだ。
それもただの妖艶ではない、舞台で猛毒を発散しまくりなのだ!
現在の四谷シモンの活動を知らない方たちのために、ここで一旦こんなものを見てもらおう。
で、また状況劇場の頃の話に戻ります。
毒花・四谷シモンは、この超美形の上にさらに歌が巧いときた。
その腕前は状況劇場随一であったと思う。
唐さんの戯曲は、ミュージカルかと思うくらい歌が多い。
だから、シモンの歌は紅テント劇場の舞台の魅力のひとつであったわけだ。
この歌の巧さの秘密は、4、5年前に出版されたシモンの半生記のような本で、俺は初めて知ったのだった。
またもや、長くなってしまいました。では、そろそろお暇いたします。
皆さん、またお会いしましょう。
投稿者 根津甚八 15:41 | コメント(16)| トラックバック(0)
ブログ1周年を過ぎたということですが、最近は頻繁にブログを更新していただきありがとうございます。毎週、更新されているかな~?とどきどきしながら楽しませてもらっております。でも体調に気をつけながら、のんびり更新なさってくださいね。
クリスマス島って・・・ ヒッチコックの 鳥 のロケ地とか?
この世のものとは、思えない コバルトブルーの ラグーン**
珊瑚礁で、できてる島だから、あんなに美しいの?
サンゴが、侵食して、無数の塩湖が、できたとか書いてあったけど。。。キレイなんですね。
<鳥>では、人間が、鳥に襲われるけど、 <不都合な真実>
では、人間が、偉大なる自然を、侵食し続けている。
恐ろしい真実を、映像でみると、愕然とします。
足元で、できること、私も、実践します。 便利な世の中に逆らうのは、なかなかハードですけど・・・
四谷シモン(有名人は、固有名詞) は、DCブランドが、流行った頃、注目してました。 アンティークな、人形とか、大好きです。 次回楽しみにしてま~ス♪
エコール・ド・シモンの人形展に行った時、控え室でお弟子のご夫人たちに囲まれ、談笑していらっしゃったシモン氏は、ほんと優しいジュゼッペじいさんのようでした。
久世光彦さんのドラマに、いつもちょっとだけお医者さんの役とかで出演されてましたね。「東京タワー」に出たのが、見納めかなあと思いました。
でもでも、ほんとに歌は素敵ですね。シモンさん今だって、十分セクシーだと思います。1回聴いただけでメロメロです。何か天性の魅力と言うか、ぜひ聴きたいものです。
いや~、似ていらっしゃいますねぇ。
根津さんが『恐い、恐い、おっかない』お父様を、実はすごく尊敬され誇りに思われているのがすごく感じられます。
そういう父子関係を築かれたお父様も、根津さんも素晴らしく、また羨ましい限りです。
懐かしい山梨時代のお話をお伺いしながら、昔根津さんが出演されましたドラマ『冬の運動会』を思い出しました。
あのドラマがきっかけで当時向田邦子さんの世界に引き込まれ、本を読み漁りました。
コロッと話は変わりますが、『お膳返し』の何かおもしろい事を知っているかな?と思い夫に話したところ、
夫曰く、「もったいないなぁ~、茶碗や皿は割れるし、ご飯もおかずも台無しや、そんな事して~、・・金持ちと違うか?そんな事できるって・・親父はしなかったなぁ~・・」って。
私 「そう!根津さんちって、歯医者さんだって」
夫 「そうやろ~!」
そんな『お膳返し』の話をするつもりじゃなっかたのに・・・
もー!訳わからん!役にたたぬ夫です。
根津家は、相当なお家柄なのですね。
曾おじい様、おじい様、お父様、お兄様へと、代々根津家を誇りにされてきたことが、よく分かります。
お膳返しの人は、やはり星飛馬の父しか知りません。こども二人をガツンも、されたことないです。時代が流れたのですね。
塘沽(タンクウ)といえば根津さん、徹子の部屋かなんかで
『♪タンク~ゥ シンコ~♪』とかって歌われてた記憶が・・・。(笑)あれは父上が歌って聴かせられていたのでしょうか。
不都合な真実は映画館へ見に行きましたが、なんとかしなければイケナイ、といろんな意味でうごかされる映画でした。自然を愛する男・根津さんとしては、ほっとけない事実ですよね。でも、わざわざキリバスまでフライフィッシングをやりに?(^^;)
四谷シモンさん、ご本人も作られる人形もすごいですよね。いちどだけナマの舞台(唐組?)をみることができ、それは鮮烈に印象に残っています。迫力のある”女”でした。
もう一度コメントしちゃいました。
お膳返し・・・ウ~ン??( いつも使っていなかった頭に、ドーパミンが、走り 脳が、活性化する~ゥ )
カルチャーショックの連続デス。
寺内貫太郎一家を、イメージします。しかも、ちゃぶ台で、食事を、していた時代。 今のような、しっかりした、ダイニングテーブルでは、 ひっくり返すのも、大変だし。
戦前の家父長制度を意識していた世代が、親だった時代。
親の威厳が、あった時代。昭和30~40年代ぐらいまでは、あったかも・・・
今ほど、個々人が、本音で、自己主張しなかったし、建前とか、堪え性もあった。マイナーな部分もあるけど、家族に、役割分担が、あり まとまっていたのかも・・・
今、ニュースで、取り上げられる、信じられない家族の事件、惨事など 聞かなかったですよネ。
いつからお膳返しが、始まったかは、わかりませーん。
黄金の~は、それ以前の大河ドラマとは異なる新鮮な魅力を放っており 少女だった私たちを惹きつけたものです。
あれから○十年を経てそれぞれ妻となり母となった私達にブログを通じて素の根津さんを見せて下さるとは、感激至極・・・今の自分にとってタイムリーな情報が憧れの根津さんからいただけるんですもの。
早速、丹生谷さんの『母から学んだ~』を購入し読ませていただきました。
内容は言うまでもなく素晴らしく、ハードカバー故の魅力もあります。 明治生まれの自意識の強い祖母、賢く忍耐強かった母の暮らしぶりを思い出しては、一人うなづいてしまいました。
根津さんのお父様のお話にも通じるのですが 我が子の将来に思いを巡らしたとき、自分の育った環境、更には先祖、ルーツ?までも掘り下げてしまいます。 昔くさい家長制度が、その時代の割に根強い家庭で育った事が恥ずかしかったものですが 今になってみると厳しく躾けられて良かったなと感謝します。祖父母の話す偉大な先祖の事も 当時は、自意識過剰なんじゃないの?と思ったものですが 今では、『ご先祖の皆様、ありがとうございます。』などと素直につぶやきながら仏壇に参っています。 子供たちは、どう感じているかわかりませんが一緒にお参りしています。 いつの時代も親が子供を思う気持ちって変わらないんでしょうが ここ一番って時の忍耐が欠けているのかな? 昨今の自分の反省もふくめて 思います。