異形の役者体62007年04月30日
皆さん、如何お過ごしですか? 根津甚八です。
皆さんから寄せられたコメントは、全て目を通させてもらってます。
悪質なものは、ある程度「テニス365」の方で管理してくれているので、不愉快な思いをすることもなく済んでいます。
ここのところ、多くの方のコメントが、何故か長くなってきているので、結構読みでがあり、ホント嬉しいっす(@o@)
様々な方のコメントに、笑ったり、驚いたり、時には「うん?」と思ったり、励まされたりしてきました。
ありがとうございます!!!
これからもドシドシお寄せください(^_-)-☆
さて、もうすぐ子供の日、端午の節句です。
これは、息子が生まれてから、こどもの日の一ヶ月ぐらい前になると、毎年飾っている。
そんなこと普通だと思われるでしょうが、どっこい、俺にはそうではないのです。
俺が生まれたのは、典型的な亭主関白主義の家庭でした。
父は、家の中では常に殿様のようで、俺にとってはとてつもなく恐い存在でした。
父は、母に用事がある時いつも「オイ」か「オ~イ」としか呼んでいなかったような気がする。たまにはきちんと名前で呼びかけていたのかもしれないけれど、俺の記憶の中には殆ど残っていない。
「巨人の星」の星飛雄馬の親父じゃないけど、何か気に入らないことがあると、茶の間のデカイ丸膳をよくひっくり返していました。
何一つ文句も言わず、飛び散った飯粒やおかずを片付けていた母の沈黙の背中・・・今でもハッキリと脳裏に焼きついています。
あの頃の日本では、どこの家庭でも見られたごく普通の光景だったと思うけど、(そう思ってるのは自分だけだったりして・・・)昨今では、もう殆ど見かけなくなってしまった。
あの「戸板返し」ならぬ「お膳返し」は、当時の「日本のお父さん」の課長、じゃなくて、家長としての権威の象徴の一つであって、きっと全国の家庭において日常的な光景で、一種の流行(はやり)だったんではないだろうか?
あの懐かしの「お膳返し」は、どうやって生まれ、一体いつ頃から日本中を席巻したのだろうか?
う~ん、気になる。誰か、知っていたら教えて欲しいっ!
そんな家庭だったから、俺の子供時代の家族全員揃ってのセレモニーは、元旦のお屠蘇の順番飲み(?)が、一年を通しての最初(これは、どの家庭でも同じか・・・)のものなのだが、他のと比べると、最も格式張った重々しい儀式であった。
そして、同じ元旦のお年玉、節分の日の豆まき、春のお彼岸の墓参り、花まつり(お釈迦さま誕生日)、こどもの日、お盆の迎え火と送り火、秋のお墓参り、十五夜の月見、年末の大掃除、大晦日の歌合戦を全員揃って総見・・・、そんなものだった。
誕生日は、特別な日ではなかった。無論誕生日プレゼントももらったことはない。
小学校高学年の時、友人のI君の誕生日に呼ばれていった時のことだ。
I君は、うれしさイッパイで横に置いてあったサイダーの瓶が詰まった(多分1ダースの)木箱を指して、信じられないことを言った。
「これさあ、お父さんからのプレゼントなんだ!」
俺はビックラしちゃった(◎_◎) おどれえちゃった(◎_◎)
誕生日会を、友人を呼んで開くことでもう充分に驚いてるのに、さらにお父さんから誕生日のプレゼントだあ!!!
以後、俺は二度と友人の誕生会には出ないことにした。
勿論、家族旅行などただの一度もない。
家族揃って出掛けるのは墓参りぐらいというのも寂しい限りだが、当時の一般庶民は、みんなそんなものだったんじゃないかな?
いや、違うかな、うちだけ特別? いやいや、仲良しを呼んで誕生会をやってもらって、サイダーひとケースのプレゼントまで貰えるのが特別。いや、待てよ・・・。
う~ん、わからん!
とにかく、子供にとって一番楽しいのは、何といっても正月のお年玉\(^O^)/ それと子供の日。
ただ、子供の日という名前は良いが、これといった行事は無く、楽しみは、母お手製の柏餅ぐらい。菖蒲湯にも必ず入ったが、別段楽しくはない。
そして、男4人兄弟というのに、我が家には武者人形も鯉のぼりもなかった。
「男の子のための端午の節句なのに・・・」と、いつも他の家の艶やかな鯉のぼりをうらやましく見上げていたものだ。
だから、その反動で、我が息子にはせめて武者人形ぐらいはということで毎年キチンと飾ってるというわけ。
では、お待たせしました。怪優・麿赤児のお話。
おっと、その前に、アンジェラ・アキの「武道館ライブ」。
勿論見逃していませんよ。・・・テレビでだけど・・・。
バックにドラムも何も無い、自ら弾くピアノだけのこのライブの方が、CDより遥かに良かった(^ロ^)~~♪
シンプル極まりないピアノの弾き語りは、彼女の歌を、よりシャープにし、聞く者の心に響いたと感じているのは、俺だけだろうか?
では、ここらで本当に〈まくら〉はおしまい。
恐いでしょう? 変な病気持ちみたいで、近づきたくないでしょう?
しかし、麿さんの凄さは、その外見だけはないのです。
驚くなかれ、時によっては、テントの外、つまり観客の視界からわざと外れて芝居をやるのである。
それこそ、観ていた客はビックラしたに違いない。
客の見てる前から、麿さんは普通に消えてしまうのです。
劇場の外へ出ていってしまうんですよ!? 考えられません! そんな突拍子もないことは、それまでの演劇の常識では絶対にあり得ないわけです。
でも、紅テント劇場は、普通の劇場では絶対あり得ないことが、ごく当たり前に起きるんです。
「あれ、何で消えるの?」と呆気に取られてると、やおら客席の頭上、つまりテントの上で麿さんの芝居が続いているというわけ。
かっちょイイ!!! 「ヨッ、麿っ!」って掛け声が聞こえてきそう。
で、肝心の台詞はというと、テント上の麿さんと観客を隔てているのは厚さ2ミリ程度の幕一枚だけ。だから、チャンと声は観客まで届くのである。
「街と劇場は、たった一枚の布きれでしか仕切られていない。」
このキモに気づいた時、20才そこそこの俺は、「状況劇場は日本一、いや世界一面白い。無敵の演劇集団になる」と確信したものだった。
・・・のだけれど・・・???
いずれにせよ、テント劇場という構造は、無限の可能性を孕んでいる秀逸なマジック装置であることに変りはない。
しくわぁしである、演劇は、まず「肉体」ありきだからなあ。
抜群にダイナミックで超々強力なマジック装置があっても、それだけでは駄目なんだな(+_+)
麿赤児は、麿赤児というの肉体の一番外側の皮膚の内側にしかいないんだよね。
ま、誰でも同じで、この世に唯一無二。絶対に変りは効かないんだよね。
前に「虚」と「実」の混同がいとも簡単に成立してしまっているところに、テント劇場のミソがあり、要のキモなのであると書いたけど、その分かり易いかたちが、役者が劇場から出ていってしまい、それでも芝居が成立するというところです。
土くれの舞台のあるテントの中が「虚」としたら、テントの外は街で、まぎれもない「現実」です。
そこのところを、往来するのは簡単に見えるし、誰にでも出来ます。
しかし、やりゃーいいというものではないのです。
本気でこの領域に踏み込むと危険なんです。かなり、意識が繊細にして鋭敏、かつ大胆にして強靭でないと、本当にヤバイのです。
並のセンスの持ち主では、ここに入り込んでどんなにジタバタしても奇跡は起きないし、そこでしか通用しないただのヘンテコな存在になってしまうのです。
街中でこんな格好をしても、決して下卑て見えないところが、麿さんの魅力であると思う。
「虚実の皮膜に真(まこと)有り」ってな言葉を、かの近松門左衛門という天才が残していますが、この薄皮一枚のところに、舞台や映画が、また役者がどれほどの力を発揮出来るか、人の魂を打つかどうかの肝心な基本中の基本、キモが潜んでいるのです。
このことを、20才そこそこで、実践を通して学ばせてもらったことが、役者としての俺にとって、一番大きな財産だと思っています。
この時期が、俺の「サクラ色」だったのだ!! ってか(・_・;)
俺の知ってる麿さんのぶったまげエピソードは、まだまだある。
「自転車こけた」
「ウンコ」
「もろ斬り」
「赤ん坊と山下洋輔のレコードの山」・・・等々。
ですが、ここらで一旦別の、かつての状況劇場の怪優に登場してもらうつもりでいます。
それは誰かって? そいつは次回までのお楽しみということで・・・。
でも、あくまで予定ですからね。
皆さん、今回も長々とお付き合いありがとうございました。
では、またお会いしましょう。
皆さんから寄せられたコメントは、全て目を通させてもらってます。
悪質なものは、ある程度「テニス365」の方で管理してくれているので、不愉快な思いをすることもなく済んでいます。
ここのところ、多くの方のコメントが、何故か長くなってきているので、結構読みでがあり、ホント嬉しいっす(@o@)
様々な方のコメントに、笑ったり、驚いたり、時には「うん?」と思ったり、励まされたりしてきました。
ありがとうございます!!!
これからもドシドシお寄せください(^_-)-☆
さて、もうすぐ子供の日、端午の節句です。
これは、息子が生まれてから、こどもの日の一ヶ月ぐらい前になると、毎年飾っている。
そんなこと普通だと思われるでしょうが、どっこい、俺にはそうではないのです。
俺が生まれたのは、典型的な亭主関白主義の家庭でした。
父は、家の中では常に殿様のようで、俺にとってはとてつもなく恐い存在でした。
父は、母に用事がある時いつも「オイ」か「オ~イ」としか呼んでいなかったような気がする。たまにはきちんと名前で呼びかけていたのかもしれないけれど、俺の記憶の中には殆ど残っていない。
「巨人の星」の星飛雄馬の親父じゃないけど、何か気に入らないことがあると、茶の間のデカイ丸膳をよくひっくり返していました。
何一つ文句も言わず、飛び散った飯粒やおかずを片付けていた母の沈黙の背中・・・今でもハッキリと脳裏に焼きついています。
あの頃の日本では、どこの家庭でも見られたごく普通の光景だったと思うけど、(そう思ってるのは自分だけだったりして・・・)昨今では、もう殆ど見かけなくなってしまった。
あの「戸板返し」ならぬ「お膳返し」は、当時の「日本のお父さん」の課長、じゃなくて、家長としての権威の象徴の一つであって、きっと全国の家庭において日常的な光景で、一種の流行(はやり)だったんではないだろうか?
あの懐かしの「お膳返し」は、どうやって生まれ、一体いつ頃から日本中を席巻したのだろうか?
う~ん、気になる。誰か、知っていたら教えて欲しいっ!
そんな家庭だったから、俺の子供時代の家族全員揃ってのセレモニーは、元旦のお屠蘇の順番飲み(?)が、一年を通しての最初(これは、どの家庭でも同じか・・・)のものなのだが、他のと比べると、最も格式張った重々しい儀式であった。
そして、同じ元旦のお年玉、節分の日の豆まき、春のお彼岸の墓参り、花まつり(お釈迦さま誕生日)、こどもの日、お盆の迎え火と送り火、秋のお墓参り、十五夜の月見、年末の大掃除、大晦日の歌合戦を全員揃って総見・・・、そんなものだった。
誕生日は、特別な日ではなかった。無論誕生日プレゼントももらったことはない。
小学校高学年の時、友人のI君の誕生日に呼ばれていった時のことだ。
I君は、うれしさイッパイで横に置いてあったサイダーの瓶が詰まった(多分1ダースの)木箱を指して、信じられないことを言った。
「これさあ、お父さんからのプレゼントなんだ!」
俺はビックラしちゃった(◎_◎) おどれえちゃった(◎_◎)
誕生日会を、友人を呼んで開くことでもう充分に驚いてるのに、さらにお父さんから誕生日のプレゼントだあ!!!
以後、俺は二度と友人の誕生会には出ないことにした。
勿論、家族旅行などただの一度もない。
家族揃って出掛けるのは墓参りぐらいというのも寂しい限りだが、当時の一般庶民は、みんなそんなものだったんじゃないかな?
いや、違うかな、うちだけ特別? いやいや、仲良しを呼んで誕生会をやってもらって、サイダーひとケースのプレゼントまで貰えるのが特別。いや、待てよ・・・。
う~ん、わからん!
とにかく、子供にとって一番楽しいのは、何といっても正月のお年玉\(^O^)/ それと子供の日。
ただ、子供の日という名前は良いが、これといった行事は無く、楽しみは、母お手製の柏餅ぐらい。菖蒲湯にも必ず入ったが、別段楽しくはない。
そして、男4人兄弟というのに、我が家には武者人形も鯉のぼりもなかった。
「男の子のための端午の節句なのに・・・」と、いつも他の家の艶やかな鯉のぼりをうらやましく見上げていたものだ。
だから、その反動で、我が息子にはせめて武者人形ぐらいはということで毎年キチンと飾ってるというわけ。
では、お待たせしました。怪優・麿赤児のお話。
おっと、その前に、アンジェラ・アキの「武道館ライブ」。
勿論見逃していませんよ。・・・テレビでだけど・・・。
バックにドラムも何も無い、自ら弾くピアノだけのこのライブの方が、CDより遥かに良かった(^ロ^)~~♪
シンプル極まりないピアノの弾き語りは、彼女の歌を、よりシャープにし、聞く者の心に響いたと感じているのは、俺だけだろうか?
では、ここらで本当に〈まくら〉はおしまい。
恐いでしょう? 変な病気持ちみたいで、近づきたくないでしょう?
しかし、麿さんの凄さは、その外見だけはないのです。
驚くなかれ、時によっては、テントの外、つまり観客の視界からわざと外れて芝居をやるのである。
それこそ、観ていた客はビックラしたに違いない。
客の見てる前から、麿さんは普通に消えてしまうのです。
劇場の外へ出ていってしまうんですよ!? 考えられません! そんな突拍子もないことは、それまでの演劇の常識では絶対にあり得ないわけです。
でも、紅テント劇場は、普通の劇場では絶対あり得ないことが、ごく当たり前に起きるんです。
「あれ、何で消えるの?」と呆気に取られてると、やおら客席の頭上、つまりテントの上で麿さんの芝居が続いているというわけ。
かっちょイイ!!! 「ヨッ、麿っ!」って掛け声が聞こえてきそう。
で、肝心の台詞はというと、テント上の麿さんと観客を隔てているのは厚さ2ミリ程度の幕一枚だけ。だから、チャンと声は観客まで届くのである。
「街と劇場は、たった一枚の布きれでしか仕切られていない。」
このキモに気づいた時、20才そこそこの俺は、「状況劇場は日本一、いや世界一面白い。無敵の演劇集団になる」と確信したものだった。
・・・のだけれど・・・???
いずれにせよ、テント劇場という構造は、無限の可能性を孕んでいる秀逸なマジック装置であることに変りはない。
しくわぁしである、演劇は、まず「肉体」ありきだからなあ。
抜群にダイナミックで超々強力なマジック装置があっても、それだけでは駄目なんだな(+_+)
麿赤児は、麿赤児というの肉体の一番外側の皮膚の内側にしかいないんだよね。
ま、誰でも同じで、この世に唯一無二。絶対に変りは効かないんだよね。
前に「虚」と「実」の混同がいとも簡単に成立してしまっているところに、テント劇場のミソがあり、要のキモなのであると書いたけど、その分かり易いかたちが、役者が劇場から出ていってしまい、それでも芝居が成立するというところです。
土くれの舞台のあるテントの中が「虚」としたら、テントの外は街で、まぎれもない「現実」です。
そこのところを、往来するのは簡単に見えるし、誰にでも出来ます。
しかし、やりゃーいいというものではないのです。
本気でこの領域に踏み込むと危険なんです。かなり、意識が繊細にして鋭敏、かつ大胆にして強靭でないと、本当にヤバイのです。
並のセンスの持ち主では、ここに入り込んでどんなにジタバタしても奇跡は起きないし、そこでしか通用しないただのヘンテコな存在になってしまうのです。
街中でこんな格好をしても、決して下卑て見えないところが、麿さんの魅力であると思う。
「虚実の皮膜に真(まこと)有り」ってな言葉を、かの近松門左衛門という天才が残していますが、この薄皮一枚のところに、舞台や映画が、また役者がどれほどの力を発揮出来るか、人の魂を打つかどうかの肝心な基本中の基本、キモが潜んでいるのです。
このことを、20才そこそこで、実践を通して学ばせてもらったことが、役者としての俺にとって、一番大きな財産だと思っています。
この時期が、俺の「サクラ色」だったのだ!! ってか(・_・;)
俺の知ってる麿さんのぶったまげエピソードは、まだまだある。
「自転車こけた」
「ウンコ」
「もろ斬り」
「赤ん坊と山下洋輔のレコードの山」・・・等々。
ですが、ここらで一旦別の、かつての状況劇場の怪優に登場してもらうつもりでいます。
それは誰かって? そいつは次回までのお楽しみということで・・・。
でも、あくまで予定ですからね。
皆さん、今回も長々とお付き合いありがとうございました。
では、またお会いしましょう。